コネコノホウソク(4)
4
たかが噛み傷とは言え一応医者に見せた方がいいんだろう。
翌朝トーストを齧りながら電話帳をめくって、一番近くの獣医を捜した。
猫は潰される事もなく、朝がくるまで同じ場所で同じ姿勢で眠っていたらしい。
まだ微睡んでいたサイファーの胸元ににじりあがってきて、腹が減ったというつもりだろう、にゃあにゃあと騒ぐものだから無理矢理起こされたのだ。
すっかりふわふわの毛玉に戻った猫は、電話帳をめくるサイファーの隣で大人しく缶の中の牛乳を舐めている。
歩いて十分程のところにちょうど良さげな病院があった。
そこの頁を破ろうとして、ふと妙な気配に気付いた。
猫が、そわそわとあちらこちらを徘徊している。
なんだ?
訳が解らず見守っていると、昨夜ベッドの足元に投げ出したままだったタオルの上で、ぴたりと足を止めた。
ちょこんと脚を揃えて座ったかと思うと、尻尾をぴんと立て、ふるふると震わせる。
「‥‥あ、テメエ!」
思わず立ち上がったサイファーをよそに、猫は電光石火にその場を逃げ出した。
なるほど、食ったら出るのが動物の性という訳だ。
げんなりしたが、これは気付かなかった自分が悪い。
キッチンの隅に逃げ込んだ猫は、どこか気まずそうにこっちを見ている。
粗相をされたタオルをつまんで風呂場に片付け、もう何度目かわからない溜め息をついた。
病院の帰りには、ペットショップも探さねばならないだろう。
こじんまりとした動物病院は、平日のためかすいていて、待たされる事もなかった。
すらりとした身を白衣に包み、長い髪を束ねてアップにした女医に案内されて、すぐに診察室に通された。
若く美しい女医は猫の体をあちこち撫で回し、体重をはかったり耳の中を覗いたりした後に、頬の傷を診てにっこりと笑った。
「縫う程の傷じゃないわ。一応化膿止めの注射をして、薬も出すから飲ませるようにね。」
そしてサイファーに猫の体を押さえているように言い、小さな注射器で首筋に注射をした。
てっきり暴れだすかと思ったが、猫は意外にも大人しくしていた。
「カルテを作るから。この子、名前は?」
問われて、困った。
名前なんかあるわけない。
仕方ないので正直にないと答えると、彼女はあらあ、と言って笑った。
「名無しちゃんじゃ困るでしょう? 名前をつけてあげなくちゃ。」
そんな事を言われても、猫の名前なんてタマだのミケだのトラだのしか思い浮かばない。
眉間に皺よせて困惑していると、女医はしばし猫の顔をじいっと見つめて、じゃあ、と言った。
「小さな天使ちゃん。エンゼルちゃんはどうかしら。男の子だから、ゼルくんかな。」
蒼い瞳が不思議そうに女医を見上げて、それからサイファーを見た。
どう思う?
ぱちりと瞬く瞳が、問いかける。
あんたがいいなら、オレはそれでいいと思うけど。
「‥‥それでいい。」
「はいはい。じゃあゼルくんね。生後‥‥ええとこの感じだと四ヶ月くらいかしらね。」
「四‥‥そんなもんなのか。」
「そんなもんなのよ。」
カルテにペンを走らせながら、サイファーの口調を真似て女医はうんうんと頷いた。
「あなた猫を飼うのは初めて?」
ああと頷き、頷いてからはっとした。
ちょっと待て。
いつ俺はこいつを飼う事になったんだ?
だが突っ込もうにももう遅い。
無意識の内に頷いてしまった自分に呆然としているサイファーをよそに、女医はデスクの隣のファイルの下を何やらあれこれと探り、数枚のパンフレットを選びだして差し出した。
「猫を飼うなら最低これは必要よ。キャリーバッグかケースも買ってね。あと、落ち着いたら予防注射もした方がいいわ。」
猫でも、予防注射をするのか。
内心驚いたが、ともあれ渡してもらったパンフレットには猫の飼い方だの必要なグッズだのが図解で載っていて、おかげで役に立ちそうだった。
「何かあったら、いつでも相談にいらっしゃい。」
診察を終え、受付で薬の小さな袋を渡しながら、彼女はサイファーの腕に抱かれた小さな猫の頭を優しく撫でた。
「じゃあね、ゼルくん。可愛がってもらうのよ。」
撫でてもらって蒼い目を細め、心地よさげににゃあと鳴く。
美人に弱いところは、こいつも一応雄なんだな。
なんとなく、そんな下らない事で感心した。
To be continued.
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