コネコノホウソク(5)


5

給料日の後で良かった。
キャリーケースに加え、猫のトイレだのトイレ用の砂だの爪研ぎだの、山となった荷物を前に、しかしそれだけの出費を惜しいとは少しも思わない自分が不思議だった。
それよりも、この荷物をどう抱えて帰るかが問題だ。
思案したが、結果キャリーケースの中に全部放り込んで行く事にした。
では本来ならそこにおさまるはずのケースの主はというと、またもやサイファーの懐である。
猫はどうやらそこがえらく気に入ってしまったらしく、サイファーの手で懐に押し込む迄もなく、ボタンを外すや否や心得たように、勝手に潜り込んできた。
そうして胸元から顔を覗かせて、満足げに目を細める。

ペットショップを出て、帰る道すがらはちょうど昼時だった。
職場である進学予備校のある市街地ほどではないものの、ここの商店街も小さなオフィスをいくつか包括しているから、この時間になると昼食をとる会社員らでけっこう人通りが多い。
見覚えのある銀行の制服姿のOLや、小振りのポーチを抱えた若い女性らともたびたびすれ違った。
すれ違う彼女らは、サイファーの胸元を見て一様に、あら可愛いと口々に呟いたり微笑んだりしていく。
これにはおおいに閉口したし、気恥ずかしかった。
普段なら、温和とは言い難い容姿と人並み以上の身長のせいで、ともすると堅気でないのではと訝られる事もしばしばなのだ。
うっかり目が合おうものなら狼狽して視線を背けられるのが常だったし、人混みを歩いていて肩でもぶつかろうものなら、詫びるより先に詫びられる。
長年、そういう反応に慣れきっていた。
だから逆に、通りすがりの人間にそんな笑顔で見送られるなんて、ひどく居心地が悪かったのだ。
無論、彼女らの視線や微笑はあくまで懐の愛らしい仔猫に向けられたものである。
彼女らの注意が、それを抱えている男の強面振りにまで及んでいないのは明らかなのだが、それでもやはりじろじろ注目されるのは尻の座りが悪い。

「おい。引っ込んでろ。みっともねえ。」
人通りが途絶えた隙に声を低めて胸元に囁いたが、猫はよほど辺りに気を取られているのか、サイファーの顔など見上げもしない。
相変わらず頭を突き出したまま周囲の様子を伺い、蒼色の瞳で行き交う車や人をじっと眺めている。
いっそ頭を押さえつけてやろうかとも思ったが、両手に荷物をぶら下げていてはそれもままならない。
サイファーは渋面を作り、やがてふと思いついて呟いた。
「‥‥ゼル。」
ぴくり、と耳が動いて、蒼い瞳が初めてサイファーを振仰いだ。
「なんだてめえ。名前がわかんのか。」
思わず感嘆すると、薄桃色の鼻先がひくひくと動き、くう、ともふう、ともつかぬ声を出した。
馬鹿にするなと言っているようだ。
「ああ、わかった。‥‥ゼル。引っ込んでろ、みっともねえだろ。」
大真面目にそう告げて、告げたそばから馬鹿げていると思った。
名前ぐらいならともかく、まさかこんな小さな猫が言葉を解するなんてあり得ない。
あり得ないのだが。
猫------ゼルは、しばしその蒼い瞳でじっとサイファーを見つめると、黙ってこそりと腹の上で向きを変えた。
そして背中を丸めると、サイファーの腹に鼻先をこすりつけるようにして、大人しくシャツの中に引っ込んだのだった。

家に戻って荷物を解いている間も、ゼルは自分からは懐から出ようとしなかった。
さすがに作業の邪魔なので、首根っこを摘んで引っ張りだしたが、すると今度はいちいち後をくっつき歩いて、サイファーの作業を見守ろうとする。
サイファーの動作のひとつひとつが珍しくて仕方ないのだろう。
おかげで、蹴飛ばさないように歩を運ぶのに難儀した。
だが、洗面所前に猫用トイレを据え置くとようやく興味がそっちに移ったようで、しきりに匂いを嗅いだり前脚で様子をうかがったりし始めた。
その隙に、散らかったパッケージのゴミを片付け、六畳一間の部屋にやれやれと腰を据える。
雑誌を手に、遅い昼食のオープンサンドを腹に詰め込みながら、それとなく意識の端で様子をうかがってみた。
ゼルは、今度はキッチンの隅に置いた銀色の餌のトレーを点検中だった。
やがて納得がいったものか、とことことキッチンを横切って洗面所を覗きに行くようだ。

一通り探険がすんだら、外に出たがるかもしれない。
ふと不安めいたものが胸をよぎり、はっとしてサイファーは眉をしかめた。
-----何で俺が、そんな事で不安を感じなきゃならないんだ。
元々野良なのだからそれもやむを得ないだろうし、そうなったらそうなったで、さっさと外に追い出せばいいだけの話ではないか。
確かに、成り行きで。
そう、成り行きで「飼い主」なんて立場に収まってはしまったが、元々好きで飼おうなんて思ったわけじゃない。
こんなチビ一匹のためにあれこれ感情が動くなんて、どう考えても理不尽だ。
理不尽だし、癪にも触るではないか。

だがサイファーの渋面をよそに、ゼルはのんびりとした足取りで洗面所から戻ってくると、今度はさして広くもない部屋の中を、まるでその距離をはかるかのように行ったり来たりと徘徊する。
無駄なものは置かない主義だが、整頓するほど几帳面でもないので、部屋の中は微妙に雑然としている。
床に積み上がった本の背表紙や、ステレオの前にごちゃごちゃと放り出してあるCDのケースをいちいちチェックしながら、ゼルはちょろちょろと歩きまわった。
サイファーは壁によりかかり、片膝を立てて雑誌をめくりながら、あくまで知らぬ振りを決め込んだ。
やがて、ようやく探険にも飽きたのだろう。
ゼルは部屋の真ん中で足を止めると、玄関の方を見遣って何ごとかを考えるように小首を傾げた。
どうするつもりだ?
いよいよ玄関に向かうのか?
だが、そう思いきや。
ゼルはひょいと尾を立てて方向を変え、ひたひたとサイファーの方に近付いてきた。
雑誌の乗っていない、投げ出した方の脚の傍らまで来てぴたりと立ち止まり、じいっとサイファーの顔を見上げる。

子供のくせに、猫のくせに。
まるで哲学者みたいな難しい顔をしている。
とうとう根負けして、つい、視線を向けてしまった。
目が合った途端、ゼルは勝ち誇ったようににゃあと小さくヒゲを震わせ、そろりとサイファーの膝に前脚をかけた。
くすぐったい重みが太腿に這いのぼる。
「あ、コラ、テメエ。」
当たり前のようにサイファーの胸元に頭をつっこもうとしたその首根っこを捕まえて、慌てて引き剥がした。
「俺はテメエのママじゃねえ。」
「にゃあ。」
膝の上に引き戻されたゼルは不満げに鼻先に皺を寄せたが、しかし素直に諦めたのか、或はそこで妥協したものか。
もそもそと体を丸めると、両脚の窪みにすっぽりとはまりこんだ。
股間に伝わってくる、ほんのりとした温かさと生き物の息遣い。
「‥‥。」
サイファーは何となく言葉に詰まった。
少し躊躇ったあと、雑誌を除けて、その柔らかな背中を撫でてみる。
掌をくすぐる、柔らかい羽毛のような感触。
ほんの少しの力加減で簡単に握り潰してしまえそうな、小さな体。
ゼルは安心しきっているらしく、無防備な顔で丸まったまま、おまけに小さく喉まで鳴らし始めた。
「ゼル。」
低く名を呼んでみると、その耳だけが返事をするようにぴくぴくと動く。
サイファーは自嘲めいた笑みを洩らすと、膝を動かさぬように首を捻って、床の上で再び雑誌をめくり始めた。
部屋に差し込むオレンジ色の夕陽が、ふわふわのゼルの背中をまぶしい金色に染めていた。

To be continued.
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