コネコノホウソク(6)


6

動物は、嫌いではないが好きでもない。
だからこれまで、猫の習性などには興味も関心もなかったし、あえて知る必要もなかった。
だが期せずして日を追うごとに、それらは否応なしにサイファーの知識の一部となっていく。

中でも、猫という生き物はやたら高い所と狭い所が好きなのだという事実は早々に思い知らされた事のひとつだった。
帰宅して姿が見えないと思うと、クロゼットの上から得意げにサイファーを見下ろしていたり、下駄箱の一足分空いたスペースにすっぽりとはまっていたりする。
どうやらゼルは、日中サイファーがいない間、そうして部屋中のあらゆる隙間に潜り込んでみることで時間を潰しているらしかった。
ただそこは動物の浅はかさか、時としてとんでもないところに潜り込んでしまってサイファーの手を煩わせる事も少なくない。
洗濯機の後ろに潜り込んで埃塗れになってみたり、クロゼットの引き出しを開けた隙に入り込んでうっかり閉じ込められてみたり、そのたびに鳴き喚いてはサイファーの失笑を買う。

ある時などは帰ってみると、キッチンの方からやけに情けない声がする。
何ごとかと思ったら、どこからどう登ったものか、キッチンの吊り戸棚と天井の間の狭いスペースからひょっこり顔を出して、しきりににゃあにゃあと訴えかけているではないか。
どうやら登ったはいいが自力でおりられなくなってしまい、サイファーが帰ってくるのを今か今かと待ちあぐねていたらしい。
呆れたサイファーが、ったく馬鹿かお前はと悪態をつきながら、リビングから引っ張ってきた茶卓を踏み台に隙間から引っ張りだしてやると、ゼルはあからさまにほっとしたような顔をした。
これには、思わず笑ってしまった。
猫にも一応表情というものがあるのだと知って、可笑しかったのだ。

そんなある日の朝、いつも通りに仕事に行こうと玄関先に立ったサイファーは、またもやゼルの姿が見当たらない事に気付いた。
つい先程までは確かにキッチンの隅にいて、自分の餌を黙々と平らげていたのだが。
「ゼル。」
試しに呼んで見ても、返事がない。
いつもなら仕事に出かけるサイファーを玄関先まで追ってくるのが常なのに。
どうしたものかと訝ったが、悠長に居場所を確認する程の時間の余裕はなかった。
どうせ奴の事だから、恐らく今朝は早々にどこか声の届かぬところにでも潜り込んでしまったに違いない。
しょうがねえな、とひとり低く呟いてサイファーは家を出た。

駅までの道のりはいつも通りで、電車の混雑ぶりも普通だった。
目的の駅について、予備校までの道行きもなんらいつもと変わりはなかった。
講師控え室では他の講師らと他愛のない挨拶を交し、今日の授業のスケジュール表を確認してから、出席簿と参考書を掴んで教室に向かう。
それも、判で押したようにいつもと同じだった。
予備校と言っても、ここはいわゆる一流の進学塾ではない。
受講生らもさほどハイレベルな大学を目指しているわけではない。
浪人生が日々勉学する事を習慣づけるためにとりあえず通っている、そんな学校だ。
現役生が参入する夏期休暇や、受験勉強も大詰めとなる年末あたりからをのぞけば、普段の校内の雰囲気もいたって穏やかでのんびりしたものである。
今朝も講義前の教室は、呑気な笑い声や話し声で満ちていた。

「あ、せーんせ、おっはよ!」
教室に入ると、ドアに一番近い席で見慣れた女生徒が声を上げた。
無愛想にああとだけ返事をして教壇に向かう。
およそ教師らしくない強面とこの無愛想さにも関わらず、なぜかサイファーは生徒に人気がある。
今朝も座席はほぼ満席だった。
教卓に、担いだままだったデイバッグと出席簿を投げ出して、さっさと参考書を広げる。
教室は俄に水を打ったようになって、いつものように数学の講義が始まった。

十分ばかりもした頃だろうか。
ホワイトボードに向かって公式を書き付けていたサイファーは、背後でさざめく妙な空気に気が付いた。
何やら、生徒達が動揺している。
明らかに落ち着かない様子で、何かをこそこそと囁きあっている。
一体何だ、お前ら集中しろと振り返ろうとしたその時、突然あの女生徒が声を上げた。

「センセー。センセーのバッグ、なんか変やで。何が入ってるん?」
「あ?」
片眉をつりあげて、指差された教卓の上のデイバッグに視線を向けてみて、ぎょっとした。
もぞもぞと、バッグが動いている。
いや。バッグの中で、何かが動いているのだ。
まさか。
マーカーを放り出し、咄嗟にバッグを開けて中を覗き込んだ自分は、恐らく最悪な顔をしていたに違いない。
だが幸か不幸か、そんな間抜け面も生徒らには気付かれずに済んだ。
なぜなら、サイファーが開いたバッグの中からぴょこんと頭を出したそれに、生徒らの視線は釘付けになったからだ。
金色の毛玉が、不思議そうな顔で辺りを見回す。
そしてゼルは無邪気な声で、「にゃあ。」と一声鳴いた。

たちまち、授業どころではなくなった。
女生徒らは弾かれたようにがたがたと席を立ち、仔猫だ、可愛い、と口々に叫んで教壇に駆け寄ろうとした。
この突然の喧噪に仰天したのだろう。
ゼルはひらりと教壇を飛び下りると、次々に延ばされる彼女らの腕を逃れて教室中を駆け回った。
机や椅子の下に飛び込まれた男子生徒らは、慌てて席を蹴ってゼルを捉えようとしたが、小さな毛玉のすばしこさは筋金入りだ。
そっちへ行った、いやこっちだと怒鳴りあう声に女生徒の黄色い声も混じりあって、教室内は上を下への大騒ぎになってしまった。
サイファーは呆然としてしばしこの有り様を見守っていたが、やがてようやく我に返って一喝した。
「テメエら、席、戻れ!」

これは、きいた。
学生らは一様にはっとしたように動きを止めると、気まずそうに互いの顔を見合わせ、渋々ながら席に戻り出した。
がたがたと椅子が床を擦る音が響く中、ゼルはと視線を巡らせてみれば、彼もまたサイファーの声に我に返ったひとりだったらしい。
教室の後ろの隅で、目をまんまるくして立ちすくんでいる。
「ゼル。」
怒鳴りつけたくなるのを必死で堪えて、低く名を呼んだ。
ゼルは少し躊躇ったあと、小さくにい、と鳴いてとぼとぼと教壇に戻ってきた。
屈んで首根っこをひょいと摘み上げ、そのままつかつかとドアに向かう。
背後であの女生徒が、訴えるように慌てて尋ねた。
「センセー。その子、センセーの猫なんやろ? どないするん?」
腕の先にゼルをぶら下げたまま、サイファーはドアを開くと、振り返りもせずぶっきらぼうに言い放った。
「どうもこうもねえ。講師室に預けてくる。自習してろ。」


手の空いている女性講師に訳を話して、下げたくもない頭を下げて預けたはいいが。
講義が終わって講師室に戻ってみると、ゼルはすっかり講師室のアイドルになっていた。
講師らは皆、仕事そっちのけでゼルに構いたがった。
女性らはこぞってゼルを抱きたがり、小さな毛玉は次はあちら、次はそちらとバトンか回覧板のようにぐるぐると回される。
おまけに学生らまで猫は猫はと覗きにきたものだから、昼休みの講師室はすっかりふれあい動物園のようになってしまった。
なんで猫がここにいるのか、などとサイファーを責める人間などひとりも居ない。
というより、飼い主がサイファーである事すら、みな忘れているらしい。

サイファーはすっかり拍子抜けしてしまった。
たかが仔猫一匹に、いい歳をした大人までもがそろって振り回されている有り様に、心底呆れもした。
だが彼らの一様に明るい笑顔からすれば、この状況の中ひとり仏頂面でいるサイファーの方こそが異質、なのかもしれない。
なにしろ、普段は無表情で通っている隣のデスクの若い英語講師でさえ、淡い微笑みを浮かべてこの騒ぎを見守っている程なのだから。

「たかが猫じゃねえか。」
講師室内の騒ぎをよそにサイファーが憮然と呟くと、それを聞きつけた隣の彼が答えた。
「されど猫だろ。」
「クソ生意気なただの野良猫だぞ。」
「なるほど。そのクソ生意気な野良猫を、職場に連れて来るほどあんたは大事にしてるって訳か。」
勿体ぶった調子で言って、綺麗な横顔に珍しい笑顔を滲ませる。
小面憎い皮肉だが、それは彼なりの冗談で、決して悪意あるものでないことはサイファーも解っている。
滅多に感情を表さない鉄面皮だしおいそれと腹の読めない男だが、サイファーとは変に馬が合っていて、時折互いの家を行き来したり酒を酌み交わしたりする間柄なのだ。
だから、
「うるせえ。連れてきたくて連れてきたわけじゃねえ、勝手にバッグに入ってやがったんだ。」
憮然としてそう切り返しはしたが、本気で腹を立てた訳ではない。
その辺はもちろん彼の方も心得ている。
「ああ、猫はやたら狭いところに入りたがるからな。」
サイファーの不機嫌な声音などまったく意に介する様子もなく、ゼルの方を見遣って目を細めている。
その横顔に、今度はサイファーが皮肉を言う番だった。
「ったく、貴様まで締まりのねえ面しやがって。普段のポーカーフェイスはどうしたよ。」
「だって可愛いじゃないか。」
あまりにもあっさりと彼が言い放ったので、サイファーは一瞬返答に窮した。
「なんだ?」
「‥‥いや。」
サイファーは首を振って肩を落とした。
「ったく、役得だな。動物のガキってえのは。」
「あんただって、可愛いから飼ってるんだろう?」
「別にんなんじゃねえ。ただ成り行きで飼う羽目になっちまったってだけだ。」
「成り行きか。」
「成り行きだ。」
「ふうん。」
彼はまだ何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。
ただ、どこか意味ありげな小さな笑いだけを残して、デスクに向き直りファイルを広げる。
ファイルは先日の模擬試験の結果のようだった。
その細かい数字を横目に覗き込みながら、サイファーはふとある事に気付いて口を開いた。

「おい、スコール。」
「うん?」
「お前。猫が狭い所に入りたがるなんざ、良く知ってんな。」
「ああ‥‥昔飼ってたからな、猫。」
スコールはファイルを眺めながら上の空に答えた。
「まだ俺が子供の時分だったけれど。俺に懐いてて可愛かった。」
「懐くって、お前にか? そりゃまた奇特な猫だな。」
からかうとスコールは顔を上げ、向こうでまだ女性らに構われているゼルを視線で示した。
「あんたに懐く猫がいるくらいだぞ。俺に懐く猫だっている。それに、」
と、大真面目な顔で言葉を区切り、
「いくら可愛くても、さすがに学校までは連れて行かなかったぞ、俺は。」

‥‥この野郎。
思わず舌打ちをしたが、スコールは涼しい顔だ。
「なんにせよ、無事で良かったじゃないか。」
「ああ?」
「電車に乗ってきたんだろう? 下手すれば混雑の中潰されかねないぞ。」
「‥‥。」

確かに。言われてみれば、その通りだった。
地方都市とはいえ、朝の電車はそれなりに混む。
手を離しても鞄が落ちないという程の非人道的な混み方ではないが、新聞を広げて読む事が憚られる程度には人が乗るのだ。
電車が揺れたはずみに他人の荷物にぶつかったりするのは日常茶飯事だし、いちいちその事に注意を払っている人間などいない。
もし、バッグが押しつぶされていたら。
あるいは、どこかに挟まれでもしていたら。
そう考えると、今さらながらうっすらと血の気がひいた。

思わず、小さな毛玉に視線を投げた。
ゼルはいまだ輪の中心になって注目を集め続けている。
どうやらそこで誰かの昼食のご相伴に預かっているらしい。
可愛い可愛い、という声がひっきりなしに上がって、これも食べる?これは?という女性講師らの猫撫で声まで聞こえてくる。

‥‥ったく、人の気も知らねえで。
複雑な顔になってしまったサイファーの傍らで、なぜかスコールが、またもや意味ありげな笑みに小さく唇を綻ばせた。

To be continued.
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