コネコノホウソク(7)
7
うっかり学校に連れて行かれてしまって以来、さすがにゼルも悪戯が過ぎたと思ったらしい。
狭い場所に入りたがるのは相変わらずだったが、それでも二度とサイファーのバッグにだけは潜り込む事はしなかった。
一方サイファーは、毎朝家を出る時には必ずゼルの名を呼んで、その姿を確認してから出かける習慣がついてしまった。
玄関先でゼルはいつも、仕事に行くサイファーを不満げな顔で見送った。
ひとり留守番をせねばならぬのが、どうにも納得いかないらしい。
だが、仕事を終えて帰宅してみれば、朝の不満げな顔などどこへやら、嬉々とした鳴声でサイファーを出迎える。
おそらくアパートの外階段を登ってくる音を聞きつけての事なのだろうが、まるで朝見送った時からずっとそこにいたかのように玄関先で行儀良く前脚を揃えて待ち構えていて、サイファーが入ってくるや否や足元にすりより、うろうろとまとわりつくのだ。
おかげで靴を脱ぐのにさえ難儀しなければならず、わかったからちっと待ってろと叱りつけるのもこれまたサイファーの習慣のひとつになってしまった。
そして叱りつけるたびに。
猫相手に俺はなにを糞真面目に説教しているのかという仄かな自嘲が、サイファーを戸惑わせ、躊躇させた。
昔、子供の頃。
近所に猫好きな老婦人が住んでいて、数匹の猫を飼っていた。
彼女の家の前を通ると、たいてい彼女は縁側にいて、始終膝の上の猫に何かを語りかけていた。
それを見て、動物相手にあんなぶつぶつと独り言を言うようになったら歳を取ったという事なのか、だとしたら歳を取るというのは怖いことなんだ、などと子供心に思ったものだった。
言葉を解さない動物に話し掛けるという行為は、変に現実離れしていて不気味な事に思えたし、独り言となんら変わりない繰り事を猫相手に繰り返すなんて、どう考えても尋常じゃないと思ったのだ。
だが、実際に自分が身近に動物に向きあってみて初めて解った。
猫に語りかけることは、別に異常でもなんでもない。
ごく自然に、当たり前に、ついつい語りかけてしまうもの、なのだ。
どうせ解らねえと頭では解っていても、無意識のうちに自然に言葉が出てしまうのである。
その事に気付いた時、サイファーはなんともやりきれないような、忌々しいような気分になった。
いくら異常ではないとは解ったものの、ずっと抱いてきた価値観をひっくり返して、それを素直に受け入れるには抵抗があった。
家の中ならまだいいが、もしこんなところを誰かに見られでもしたら。
縁側と猫とひなたぼっこがセットオプションの隠居老人ならともかく、いい歳した一人前の野郎が猫相手にぶつぶつ言ってる姿なんて、やっぱり客観的に考えたらぞっとしない光景に違いない。
かつて子供の頃の自分がそう思ったように、気味が悪いと後ろ指差されても仕方ないではないか。
だから時に、サイファーは半ば依怙地になって、ゼルに対して口を噤んでみたりした。
無意識に語りかけそうになる言葉を呑み込んで、無言で接することに徹してみたりもした。
当然ゼルはそんなサイファーの思惑などどこ吹く風で、サイファーが何か言おうと言うまいと、無邪気に餌をねだり、背中を撫でろとすりよって、遊んでくれと甘えた声で啼くばかり、なのだけれども。
その日は休日だったが、いつも通りの時間に起きた。
というより、朝飯をねだってにゃあにゃあ哭き喚くゼルに叩き起こされたと言った方が正しい。
ゼルが来てからは、休日の朝といえども惰眠を貪る事ができなくなってしまった。
正直、休みぐらいはゆっくり寝ていたいから、いくら耳元で哭かれようとも意地でも起きてやるものかと最初の内は無視を決め込むのだが、ふわふわの毛で鼻先を刺激され、やがて柔らかな肉球で頬にパンチを繰り出される段になって結局根負けしてしまうのだ。
満足げに朝飯にありつくゼルの小さな背中にやれやれと肩を落とし、目を転じて、じりじりと窓枠を焼く夏の陽射しに眉をしかめる。
夏休みに入って、普段はのんびりとした雰囲気の予備校も俄に気ぜわしくなっていた。
今日も、休日とはいえ昨夜持ち帰った模擬試験の採点をこなさねばならない。
朝食を平らげたゼルは、一通りの毛づくろいを済ませるととことこと傍らにやってきた。
サイファーが出かける気配がないので、今日は休日だと察したのだろう。
座卓の前に腰を据えて答案用紙の山を並べているサイファーの太腿に、これみよがしに体をこすりつけてきた。
構って欲しい時のお決まりの合図だ。
冗談じゃない、今日は忙しいのだ。構ってやる暇などない。
片手で答案用紙を選り分けながら、片手でゼルの小さな体を脇に押しやった。
だがサイファーの意志はゼルには通じなかったようで、不思議そうな顔でサイファーの顔を見上げると、またもやふわふわの背中を押し付ける。
「だから駄目だっつってるだろ、今日は‥‥」
思わず言いかけて、サイファーははたと口を噤んだ。
まただ。また、言葉で言い聞かせようとしている。
コイツは猫で、言って判る相手ではないというのに。
気が付けばやっぱりまた言葉で説得しようとしてしまっている。
サイファーは嘆息し、己を戒め、あえて無視してもう何も言わない事にした。
何度脇腹をこすりつけても構ってくれないので、ゼルは痺れを切らしたのだろう。
肘の下をよいしょとくぐって、胡座をかいた股間にするりと滑り込むと、無理矢理座卓とサイファーの胸板の隙間に頭を突き出した。
「にゃあ。」
「‥‥。」
無言のまま首根っこを摘み上げ、脇に除ける。
するとまた同じ仕種で膝に乗り、頭を突き出す。
黙って摘んで脇に除ける。
と、またひょこりと膝に乗る。
脇に除ける。
また膝に乗る。
除ける。乗る。除ける。乗る。
どうやらゼルは、これが新しい「遊び」だと思ってしまったらしい。
サイファーは眉を顰めると、嬉々としたゼルの頭が突き出す直前、素早く座卓ににじりよってぴったりと隙間を塞いでやった。
ごん、と鈍い音と共に、小さな悲鳴が上がった。
ゼルが座卓の裏に頭をぶつけたのだ。
思わず吹き出しそうになって、慌てて笑いを噛み殺す。
ゼルは膝から飛び下りると再び傍らに来て、にゃああと鼻先に怒りの皺を寄せた。
それでもあくまで知らんぷりを決め込んで、作業に没頭する振りをする。
ここにきてようやくゼルも、サイファーに拒絶されていると理解したようだった。
そして、頭をぶつけた事に加えてこの拒絶が、甚だ彼のお気に召さなかったらしい。
「いてて! ってえな、こら!」
いきなり脇腹に爪を立てられ、サイファーは痛みに飛び上がった。
と思うや否や、ゼルは鋭利な爪を武器にそのまま一気に背中を垂直に駆け登った。
首筋にしがみつかれ、さらに頭にまで登ろうとする毛玉を慌てて力任せに引き剥がす。
飛び出したままの爪がシャツの肩にひっかかって、小さなかぎ裂きを作った。
「おい、いい加減にしろよテメエ。」
サイファーはとうとう根負けして口を開いた。
両手の中にぶらりと垂れ下がったゼルの体を軽く揺すって、鼻先をつきつける。
「俺は忙しいんだっつうの。構ってやる暇はねえ。遊びたきゃひとりで遊んでろ。」
「にゃあ‥‥。」
しょんぼりとした声を細く長く引き延ばして、ゼルはひくひくとヒゲを震わせた。
大きな蒼い虹彩が、おずおずと瞬いてサイファーを見返す。
ちくり、と胸が疼いた。
‥‥本当は、言葉を理解できないのではなく。
理解していて理解できない振りをしてるだけなんじゃないのか。
ふと、そんな事を思ってしまった。
(馬鹿馬鹿しい。)
サイファーは唇を歪めて、そっとゼルを床に下ろした。
ゼルは項垂れて----少なくとも、サイファーの目にはそう映った----とぼとぼと大人しく傍を離れた。
ようやく静けさが訪れ、サイファーはほっとして、しばらく仕事に没頭した。
だがものの三十分もすると、今度は逆に静かすぎるのが訝しく思えてきた。
キッチンの隅でふて寝でも決め込んでいるのならいいのだが、不穏な気配と予感めいたものが、どうにもさわさわと神経に障る。
「ゼル。」
そのままの姿勢で呼んでみたが、返事はない。
サイファーはサインペンを置き、立ち上がってキッチンに行ってみた。
ふわふわの毛玉はキッチンのシンクの下に丸くなって、しきりに何かに没頭していた。
「おい、ゼル。何やってる。」
片眉を吊り上げて近付くと、びくりとゼルの動きが固まった。
小さな前脚の間に、何か焦茶色の物体が見えている。
見覚えのある色だった。
一体なんだったか、と覗き込んでようやく解った。
それは毎日サイファーが手にしている、財布を兼ねた定期入れだった。
しかも、サイファーにしては唯一とも言える本革製の贅沢品で、学生の頃から何年も愛用しているものだったのだ。
「テメエ! これはテメエのオモチャじゃねえ!」
咄嗟に怒鳴りつけ、取り上げようと腕を延ばすと、ゼルは飛び上がって疾風のようにその場から逃げ出した。
床の上に残された定期入れを慌てて摘み上げてみると、見るも無惨、角は派手に齧られて小さな穴が開いてしまい、おまけにプラスチックの透明部分は幾筋もの爪跡の犠牲になっていた。
どうやら、玄関先に投げ出したバッグの口が開いたままだったのをいい事に中から持ち出してきたものらしい。
‥‥やられた。
がっくりと肩を落とし、ゆっくり頭を巡らせると、居間との境の柱の陰に金色の背中が見えている。
「ゼル。」
睨みつけると、真ん丸い蒼い瞳がそうっと片方だけ覗いた。
ぴんと立った小さな三角形の耳をぴくぴくと痙攣させながら、顔半分だけでこちらを伺っている。
サイファーは、盛大な溜め息と共に低く呻いた。
「ゼル。怒らねえからこっちにこい。」
ゼルは、小首を傾げたまま動かなかった。
それは、サイファーの言っている言葉が解らないからなのか。
それとも、サイファーの言葉に素直に従っていいものかと迷っているからなのか。
どうせ、前者に決まってる。
こいつは猫だ。人間じゃねえ。
だが、サイファーが諦めようとしたその時、不意にゼルは腰を持ち上げ、ひたひたとこちらに近付いてきた。
そしてサイファーの顔を見上げ見上げ、遠慮がちに足元にすりよると、剥き出しのサイファーのくるぶしにそっと鼻を擦り付けた。
まるで詫びるかのように何度も何度も押し付けられる鼻先は、ひやりと湿ってくすぐったかった。
サイファーは屈みこみ、柔らかな毛玉を掬い上げた。
おとなしく抱かれたゼルは腕の中で小さくにいと鳴いて、ぱちぱちと蒼い瞳をきらめかせる。
「‥‥ったく。ワリいって解ってんならなんでやるんだ。」
------だって。あんたが遊んでくんねえんだもん。
蒼い瞳でじいっとサイファーを凝視したまま、小生意気な皺が鼻先に寄る。
言葉なんて解らねえってタカ括って、オレのこと無視してさ。
ホントはちゃんと解ってるんだぜ。
あんたがそれに気付いてねえだけじゃんか。
本当は。そうなのかもしれない。
理解できないと思いこんでる自分の方が、本当は何も理解できてないのかもしれない。
口端に、自嘲とも困惑ともつかない曖昧な笑いがこみあげる。
「んなに、遊んで欲しいか。」
「にゃ。」
ヒゲをぴんと震わせて、頷くようにゼルは啼いた。
サイファーは手にしたままだった定期入れをしばし眺め、それから再びちんまりとしたゼルの顔に視線を戻して、眉をしかめてみせた。
「‥‥しょうがねえな。ちっとだけだぞ。」
そして定期入れをジーンズのポケットに捩じ込むと、確かクローゼットの片隅につっこんであったはずの猫じゃらしを持ち出すために、片腕にゼルを抱いたまま大股に居間に取って返した。
その後、齧られてしまった定期入れは、買い替える事もなくそのまま使い続けた。
そのため朝夕改札をくぐるたび、かぎ裂きになったその角に触れるたびに。
微かな忌々しさと共に喉の奥を羽根帚で掃かれるようなくすぐったさを覚え、思わず口角を緩めてしまうのがサイファーの新たな日課のひとつとなったのだった。
To be continued.
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