コネコノホウソク(8)


8

ゼルが初めてその味を覚えたのは、とある休日の夕刻だった。
ゼルを懐に買物から帰ってきたサイファーが、たまたまアパートの階段の手前、開け放した管理人室の前で、管理人アーヴァイン・キニアスに出会した時の事だ。

ゼルを連れて出かけたのは、ちょっとしたサイファーの気まぐれだった。
一緒の生活を初めて以来、ゼルを外に連れ出したのはほんの数える程しかない。
普段、特に外に出たがる様子もないから放ってあるのだが、しかし心のどこかでは常にその事が引っ掛かっていた。
本当に、ゼルは家の中だけの生活で満足しているのか。
なぜ、元は野良だというのに、外出できない生活に甘んじていられるのか。

ずっと不思議だったその疑問を何かの折に口にした時、傍らにいたスコールが一応の回答は与えてくれた。
「猫は縄張りを持ってるけど、家猫の場合家の中がテリトリーだから。そこから出られなくてもストレスにはならない、とどこかで聞いた気がする。」
なるほど。
別に外に縄張りを持つ必要がないから、なのか。
その時はそれで納得はしたものの、しかし後になって思い返してみれば、やはり釈然としなかった。
数カ月前までは刺激に溢れた外の世界を存分に走り回っていたというのに。
家の中に閉じ込めておくのは、あまりにも不憫ではないのか。
そこで、いっそ日中は外に出しておこうかとも考えた。
だが予防接種をしに再びつれていった動物病院で、今度はあの女医にそれはどうかしらと首を傾げられた。
「出たがらないなら無理に出す事はないのよ。外は危険がいっぱいだもの。」
ゼルの頭を優しく撫でながら、彼女は形の良い眉をひそめ切なげに呟いた。
「心ない人もいるし。不幸な交通事故にあわないとも限らないし。」
確かにそれも一理である。
やはり出さなくていいのだと結論するしかない。
だが、それでも------気になって、仕方ないのだ。
毎朝サイファーが出かけるたびに見せるあのやるせない表情。
縋るような、訴えるような上目遣いの青い瞳。
あんな顔をされたら、いくらこれが正解だと言われようとも後ろめたくもなるではないか。
そう告げると、女医はびっくりしたような顔をしたが、ちょっと間を置き、それからころころと鈴を転がすような声で笑った。
「それは、あれよ。外に出たいんじゃなくて。あなたと一緒にいたいからなんじゃないの?」
「あ?」
「ひとりでお留守番が寂しいだけなのよね、ゼルくんは。」
そう言って喉元をくすぐられ、ゼルはごろごろと喉を鳴らした。
絶句してしまったサイファーを前に、彼女はなおもくすくす笑いながら言った。
「なら、お休みの日にでも一緒にお散歩してあげるといいわ。きっと喜ぶわよ。」

猫と散歩だなんて。
んなみっともない真似ができるか、と内心うんざりした。
しかしその日、買い物に出かけようとして、玄関先で例によって切なげな顔をしているゼルを見て、ふと彼女の言葉を思いだした。
そこで、黙ってその首根っこを摘み上げ、懐に放り込んで出掛けてみた。
サイファーのこの気まぐれにゼルは最初こそ戸惑ったようだった。
だがすぐに嬉々とした様子で、半開きになったブルゾンのファスナーに前脚をかけて首を突き出した。
久方ぶりに見る外の世界がよほど嬉しいのか、満足げに周囲を見回し、時折首をひねってサイファーを振仰ぐ瞳も、生き生きと輝いて見える。
なるほど、たまにはこうして連れ出してやるのも悪くねえ。
気まぐれが案外功を奏した事に気を良くしたサイファーが、そんな事を思いながらアパートに戻ってくると。
開け放した管理人室の前で、管理人アーヴァイン・キニアスに出会したのだった。

「やあ、こんにちは、ゼル。大きくなったねえ。」
サイファーの懐に入ったままのゼルの頭をちょいちょいとつついて、アーヴァインは目を細めた。
まだ年若くサイファーともいくらも違わぬ彼は、長期留守にしている叔父からこの仕事を任されたのだそうだ。
若いとはいえ人当たりもいいし、温和な笑みを絶やさない優男だから、管理人という仕事はうってつけだろう。
住人からの評判も上々で、サイファーのような男とは対極にいるようなタイプの男である。
数カ月前、ゼルを初めて病院に連れて行った翌日に、猫を飼ってもいいかと打診した時、この管理人は二つ返事で構わないよと承諾した。
元来猫好きな男らしく、自分でも以前飼っていてねと聞きもしないのに嬉しそうに話し、ただ事故で亡くしてしまったんだ、可哀想な事をしたよと物憂げな表情をしてみせた。
あの時はまだぴんとこなくて右から左に聞き流していたが、今同じ話をされたら恐らく他人事とは思えずぞっとするに違いない。
「少し抱かせてもらってもいいかい?」
笑みを含んだ眼差しで上目遣いに請う彼に、サイファーはああ、と鷹揚に頷いた。
懐からゼルをひょいと摘んで引っぱりだし、アーヴァインに手渡す。
ゼルはきょとんとした顔でアーヴァインを見上げた。
「ああ、相変わらずふわふわで可愛いねえ、君は。よしよし。」
手慣れた手付きで優しく抱かれ首筋をくすぐられて、ゼルは一瞬目を細めた。
が、すぐにサイファーを振り返って小さくもがき、にいにいと啼く。
「あはは、やっぱり君がいいってさ。つれないなあ。」
そうは言いながらも一応抱けた事で満足したのか、アーヴァインは満面の笑顔でゼルをサイファーの手に返した。
再びサイファーの懐におさまって、ゼルはほっとしたように丸くなる。
と、アーヴァインはああそうだ、と呟いた。
「いいものがあるよ、ちょっと待っててね。」
言うや否や一旦管理人室に引っ込み、すぐに戻ってくると、ゼルの鼻先に何か小さなものを差し出す。
「ほーら、ゼル、どう?」
「なんだそりゃ。」
訝しさに眉をしかめると、アーヴァインはにっこりと笑った。
「煮干しだよ、煮干し。僕の猫は大好きだったんだ。ゼルはどうかな。」
「やったことがねえ。」
「え、そうなんだ? じゃあ嫌いかなあ。」
だが、突き出されたそれにしきりに鼻先を押し付けていたゼルは、ぺろりとひと舐めしてみて何か味覚の琴線に触れるものがあったらしい。
はっしとそれに噛み付くと、斜めに頭をかしげかしげ、慌ただしく犬歯で噛み砕いた。
そしてしきりに口の周りを舐め回した後、にゃあにゃあと鳴いてアーヴァインの方に身を乗り出す。
おかげで懐から落ちそうになり、サイファーは咄嗟に掌で支えてやらねばならなかった。
「良かった、気に入ったみたいだね。じゃあこれ、全部あげるよ。」
アーヴァインは、続きをねだるゼルの小さな頭の上で、煮干しの入った袋をサイファーに振ってみせた。
「いいのか?」
「どうぞどうぞ。そのかわりまた時々抱かせてよね。」
そう言ってサイファーに袋を渡し、アーヴァインはおどけたようにまたゼルの鼻先をつっついた。

以来ゼルは、この煮干しに異様な迄の執着を示すようになった。
おかげでサイファーは、どうしても手が離せない作業がある時や構ってやるのが面倒な時、とりあえずゼルの注意を他にそらすのに非常に有効な手段を手に入れた事になった。
ひと摘み餌入れに落としてやれば、食べ終わるまでは間違いなくその場を動かないし、食べているうちに当初の欲求も誤摩化されてしまうようで、しばらくは構ってくれ攻撃が止んでくれるのだ。
こんな便利な切り札を、使わない手はない。
切り札の袋は、ゼルが自力では開けられない冷蔵庫の中にしまった。
ある時うっかりシンク横に出しっぱなしにしていたら、そこに登って袋の上から噛み付こうとしている場面に遭遇したからだ。
貴重な最終兵器をそうそう簡単に敵に奪取されてはかなわない。
と言っても、なんでもない時でも、ふわふわの背中をこすりつけられて甘い声でねだられれば、渋々ながらも根負けして冷蔵庫を開けてしまう訳だから、結果的に最終兵器と呼べるかどうかは甚だ疑問だったけれども。

夏が過ぎ、時折汗ばむような日和を残しながらも、暦の上ではすっかり秋だった。
夏休みが終わって夏期講習の現役生らが去り、仕事自体はひと心地ついたが、いよいよ現実味を帯びてきた受験に向けて予備校内にはそこはかとない緊張感が漂い初めていた。
その雰囲気に煽られて講師陣もぴりぴりと神経を尖らせがちなこの頃だったのだが、そんなある日。
講師室はいつにも増して気不味い空気に包まれた。
予備校を経営する理事長が抜き打ちで現場にやってきて、講師陣の講義内容や勤務態度についてあれこれ難癖をつけたからである。
手も口も出したがるこの理事長には講師らもいい加減うんざりしているのだが、何しろ雇用主だから文句は言えない。
そして居並ぶ講師らの前で、理事長は事もあろうに名指しでサイファーを叱咤した。
いわく、生徒らに対する態度が横柄すぎる、講義内容が独断すぎるというのである。
以前からこの理事長とは教育方針があわないから、これは根拠のない難癖と言って良かったし、無視するべき当て擦りの類いにすぎないと頭では解っていた。
だが自尊心を踏みにじられたのは面白くない。
反論しようものならすぐに解雇の二文字を仄めかせる男だから、どうにかその場は耐えたものの、帰りの電車の中でもアパートへの帰路でも、忌々しさが拭えなかった。

帰宅し、玄関を開けると、いつも通りゼルが待っていた。
だが憤然としたままのサイファーは、にゃあにゃあと足元にまとわりつくゼルを無情に無視した。
バッグを投げ出して部屋に上がり、明かりもつけずにどっかと部屋の真ん中に鎮座する。
それきり彫像のように動かなくなってしまったサイファーに、ゼルが戸惑ったのも無理はない。
お世辞にも愛想がいいとは言いがたいサイファーの言動に慣れているとは言え、そこまで近寄り難い雰囲気を発したのは、それが恐らく初めてだったから。
かぼそい声でにいにいと啼きながら遠巻きにサイファーの横顔をじっと見ていたが、しばらくするとその鳴声も止めてしまった。

秋の日暮れは早い。
あっと言う間に陽は落ちて、ただでさえ薄暗かった部屋の中は座卓の輪郭も見分けられぬ程の闇に沈む。
それでもなお、サイファーは黙して渋面を作ったまま、じっと動かずにいた。
ようやく我に返ったのは、胡座をかいた膝に遠慮がちな重みがかかったからだった。
闇の中、いつの間に傍らにきたものか、ぼんやりと浮かび上がった白っぽい毛玉が膝に前脚をかけて伸び上がっている。
サイファーの顔を覗き込む猫独特の虹彩が、どこからか忍び込んだかすかな光源を捉えてきらりと光る。
「にゃ‥‥。」
囁くように、ゼルは細い鳴声をあげた。
ああそうか、腹が減ったんだな。
深い思考の淵からのろのろと浮上しながら、サイファーは溜め息をついた。
主が最悪に落ち込んでるっつうのに、所詮は飯かよ。
だが、動物に腹を立てても仕方あるまい。
サイファーはうっそりと立ち上がると、電灯のスイッチを入れた。
突然の明るさに眩んだ眼を押さえ押さえ、キッチンへと移動する。
ゼルはつかずはなれつ足元をついてきた。
だが、いつものツナ缶を取り出そうと食品棚に近付くと、途端ににゃあにゃあと喚きだす。
「なんだ。」
眉をしかめると、ゼルは冷蔵庫の前にいそいそと近付き、そこに座り込んでしまった。
‥‥なるほど。どうやら例の御馳走狙いらしい。
「テメエ。贅沢だぞ。」
「にゃあ。」
サイファーの険しい声をものともせず、ぱたぱたと尻尾を左右に振って小首を傾げている。
「ったく‥‥しゃあねえな。」
駄目だ、とあくまで拒絶する、意志も気力も今夜は欠けていた。
正直、何をするのも面倒だったのだ。
渋々冷蔵庫のドアを開け、煮干しの袋を引っ張りだす。
半ば投げ遺りな仕種でゼルの餌入れにひとつかみ落とすと、ゼルはぴんと尻尾を立てて、トレーに小走りに近付いた。
そういや自分の晩飯も食わなきゃな。
袋をしまいがてら冷蔵庫の中を眺め回してみた。
だが萎え切った気力のせいだろう、一向に食欲自体が湧いて来ない。
辟易したサイファーは、結局乱暴にドアを閉めた。

何もかもが、かったりい。
別に一食ぐれえ食わねえでも死にゃしねえ。
憮然として部屋に戻り、元の位置に腰を据えて再び肩を落とす。
そして再び思案の底に沈み掛かったその時だった。
小さな気配がひたひたと近寄ってきたのに気付いて、サイファーは顔を上げた。
緩やかに長い尾をうち降りながら、ゼルがゆっくり傍らに寄ってくる。
「なんだ、もう食っちまったのか?」
馬鹿に早えな。
呆れて呟くと、ゼルは先程と同じようにサイファーの膝に前脚をかけて伸び上がった。
そして、おじぎをするようにひょいと俯く。
「‥‥なんだ?」
視線を落としてみると、膝の上に何かが------一匹の、煮干しが乗っていた。
思わずゼルの顔を見直すと、ちんまりとした顎を上げて、促すようににゃあと哭く。
「にゃあって‥‥テメエ。」
俺に、食えってえのか?
この、煮干しを?

蒼い瞳が、サイファーの顔を見つめたまま物言いたげに瞬く。
------これ、旨いんだぜ。元気になるからよ。
だからこれ食って、早く元気だせって。

「‥‥慰めてるつもり、か?」
低く呻くと、ゼルは鼻先にかすかな皺をよせて、サイファーの脇腹に頭をこすりつけた。
サイファーは膝の上の煮干しを摘まみ上げ、その乾物とゼルの顔とをしげしげと見比べた。
腹の底から、柔らかくてくすったい例の笑いがこみあげてくる。
そうしてそれは少しずつ、身中に凝っていた澱を削ぎ落とし、曇りを洗い流していく。
「ったく‥‥猫に慰められるようじゃ、俺も相当にヤキが回ったな。」
「にゃ。」
タイミング良く合いの手を入れるように、短くゼルが哭いた。
その小さな横腹を、ひょいと胸元に抱き上げる。
「悪かったな。気いつかわせてよ。」
片腕に抱いて顎の下を撫でてやると、ゼルは目を細めてごろごろと喉を鳴らした。
その鼻先をつつきながら、覚えずつられてサイファーも目を細める。

掌の中の息使いが、素直に温かかった。
たとえ人間でなくとも、小さな猫に過ぎなくとも、今こうして傍らにあるこの生命がかけがえのない大切なものに思えた。
この、感覚はなんなのだろう。
生まれてこのかた抱いた事のない、不可解な感覚。
ただ傍にあるだけで、触れるだけで、頑な心もあっさり懐柔されてしまう。
そんな存在がこの世にあるなんて、考えた事もなかったのに。

「ったく。不思議な奴だな、テメエは。」
苦笑したサイファーの胸元で、ゼルがふと瞳を開いた。
そしてまるでサイファーの心を読んだかのようにぱちぱちと瞬くと、さもありなんと言いたげな仕種で、そっとサイファーの指に鼻先をこすりつけた。

To be continued.
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