SUCK OF LIFE(10)


10

リノアは、三日と空けず家に帰ってくるようになった。
サイファーがいずれ護衛の任務から解放されてバラムガーデンに帰るのだと知って、リノア曰くそれまでは「家出休止期間」と決めたのだそうだ。
くしくもサイファーは、家出娘の帰宅を促す形になったわけだ。
だがカーウェイ中佐は、娘が戻ってきた事を特に喜んでいる様子もなく、相変わらず飄然とした態度は崩さなかった。
娘が家に居るのは、逆に居心地が悪いのか。
夕食の席で嫌味半分に尋ねたサイファーに、中佐は淡々と答えた。

「‥‥ほっとはしているが。それもとりあえず今のところは、としか言えまい。」
「今のところ?」
「君が去れば、いずれまた彼女は出ていくだろうからな。」
サイファーは眉をしかめた。
先見の明に長けた中佐殿は、一時の状況にぬか喜びなどしないらしい。
あるいは、そもそも娘の家出を、そういうものだと達観しているのか。
いずれにせよ、肉親の確執などというものは、サイファーには解らない。
肉親同士の複雑に絡み合った感情の応酬など、サイファーにはまったく縁のない代物だ。
と、中佐はふとどこか思わせぶりな笑みを浮かべた。
「だが、君の事については娘は本気のようだ。」
「なに?」
「君も気づいていない訳じゃないだろう?彼女の好意に。」
「‥‥。」
サイファーは黙り込んだ。
当然だ。
ああも露骨で顕著な好意の表し方が他にあるだろうか。
ともすればこちらが戸惑うほどに、リノアは大胆かつ開放的だった。
はっきり好きだと告げられた訳ではないが、もし好きかと問えばなんの躊躇いもなく即座に肯定するだろう。
そういう娘なのだ。
中佐は静かにナイフとフォークを使いながら、生真面目な口調で言った。
「あれはああ見えて脆いところがある。君が守ってやってくれたら、親の私としては有り難い。」

守る?
とくり、と胸が疼いた。
その言葉がくっきりと耳にこびりつく。
「無論、もし君にその気があるのなら、の話だがな。」
「‥‥俺は‥‥」
声が擦れた。
口は開いたものの、実際には何が言いたいのか、自分でも解らなかった。
だが、不思議な高揚感で鼓動がふつふつと脈打っている。
俺が、リノアを、守る?
あの無邪気さを、無防備さを──この俺が。

中佐が先を促さなかったのをいい事に、サイファーはむっつりと黙り込んだまま食事を終えた。
しかしその考えは、部屋に戻ってからもなお思考を支配し続けた。
俺は、リノアが好きなのか?
惹かれていないといえば嘘になるだろう。
だが、それは恋愛と呼んでいい感情なのか。
そうだという気もする。
そうでない気もする。
あの笑顔を傍らで眺めるのは確かに心地よい。
しかしだからといって、それが自分の求めているものなのかと問われたら、違うと否定するだけの余地がまだあった。
仮にリノアを手に入れたとしても、それでもなお己の中の隙間は埋められぬままであろう、と容易に想像がつくのだ。
第一リノアに対しては、男であれば避けて通れぬはずの衝動をいまだに抱けていない。
彼女の意志に惹かれ、拙いながらも堅い決意に健気さを覚え、その明るさに癒されはするものの。
リノアを「女」として抱きたいなどとは微塵も思えなかった。
──解らない。
自分はリノアの中に何を見ているのか。
この、正体の解らない胸の疼きはなんなのか。

幾度も寝返りを打ちながら、サイファーは試みにその情景を思い描いてみた。
リノアの細い腰を抱き寄せ、あのふっくらとした唇にくちづける。
そのまま組みしき、覆いかぶさり、なだめながら躯を開く。
しかし、いかにリアルにその場面を想像したところで、昂りは一向に訪れなかった。
かたやリノアは無邪気に笑うばかりで、子供のような瞳でサイファーの行為をからかう。
──こんなこと、何が楽しいの?
どうせ満たされないってわかってるのに。
おかしいよ、サイファー。すごく、おかしい。

昂るどころかむしろ萎えて、サイファーは自嘲した。
まったくだ、おかしいことこの上ねえ。
考えてみれば自分はこれまで、そうした肉体的な欲望と精神的な感情を結び付けたことがなかった。
数えきれぬほど女を抱きながら、愛情で誰かを抱いた事などただの一度もなかったのだ。
性欲を満たす行為はいつだって、心の枯渇を埋めるための刹那的な気安めに過ぎなかったし、それを与えてくれる女たちも所詮道具でしかなかった。
道具だと思えば相手など誰でも良く、愛情や執着などなくても誰とでも寝る事ができた。
要は、一時の欲望を満たすためには、道具だと割り切るのが手っ取り早かったのだ。
そして、いつしかそれがサイファーにとっての性の認識、あるいは信念となった。
心と躯を乖離して、別のものだと思って初めて快楽は得られる。
幸い、ティンバーの女たちは、サイファーの道具となることを自ら望む。
サイファーの信念を脅かす事なく、唯々諾々と享楽を提供してくれる。
だが、リノアは違う。
道具として扱われることなど彼女は断固として許さないだろう。
サイファー自身も、すでにリノアという人間を知ってしまっている以上、さすがに道具としては扱えない。
だから、抱けないのだ。

多分、俺は、この先も。
肉体的満足と精神的充足を、まったく相容れないものとしてしか扱えないだろう。
たとえ、それらは本来ひとつの裏表で、常に寄り添ってあるべきものなのだとしても。
自分にはそれは無縁のものだし、望んだところで無駄なことも嫌というほど解っている。
愛しているから抱きたい、なんてただの幻想だ。
そんなのは妄想めいた理想論にすぎず、自分の身には起こり得ない。
‥‥だが。

──一体、どんなキモチのするものなんだろうな。愛する人間を抱くってえのは。
ゆっくり訪れる微睡みの片隅で問いかけると、リノアがまた笑った。
──君は解ってるはずでしょ、サイファー。
──だって、もう何度も抱いてるじゃない。
何度も?
──そう。夢の中で。
夢?
ああ‥‥そうか、あの夢は‥‥。
意識はそこで、ふつりと途絶えた。

気がつくと、サイファーは薄靄がかった光の中にいた。
視覚、聴覚、嗅覚さえも、まるで幾重ものフィルターをかけられたみたいに覚束ない。
曖昧な五感の中で、しかし意識だけは妙にはっきりと冴えている。
目の前に、何かが横たわっていた。
色も輪郭もはっきりしないそれは、人なのかモノなのかも判別できない。
けれども、本能に導かれるようにして、サイファーはそれを引き寄せ、抱き締めてみた。
うっとりするほどの温かさが押し寄せて、気が遠くなるほどの心地よさに全身が包まれる。
いずこからか、穏やかで優しい声が聞こえてきた。
耳をすますと、不確かながらも、どうやら腕の中でそれがしきりに何かを囁いているらしい。
つまりこの温かなモノはヒトなのだ。
そう理性が認識するより早く、今度は嵐のような衝動が突如躯を貫いた。
サイファーは我を失い、がむしゃらにそれにかぶりついた。
荒ぶる欲望のままにそれを押し開き、暴力に任せて陵辱する。
絶頂はあっけないほど簡単にやってきた。
のぼりつめ、欲望を吐きだして、一抹の後ろめたさに脱力した。
だが不思議なことに、事を終えても、いつものような虚無感はどこにもなかった。
心に灯った温もりも最初のままなら、体中に満ち満ちた切なく甘い安堵感も何ら変わらぬままだった。
腕の中では、柔らかな声が囁き続けている。
まるで、からからに乾いた大地に降り注ぐ優しいにわか雨のように。
声が、温もりが、飽く事なく余す所なくサイファーを潤していく。
──満ち足りている。
心から、そう思えた。
そのかけがえのない充足感を確かめたくて、サイファーは再び昂り、それを抱いた。
絶え間なく渦巻く快感と幸福感に咆哮しながら、何度も何度も、無我夢中で犯し続けた。


己の低い悲鳴で、サイファーは目覚めた。
息が乱れ、額には冷たい汗が浮いていた。
どうやら、堂々回りの考えの果てに眠りに落ちていたらしい。
そして久々に、あの夢を見たのだ。
一分の隙間もなく、完璧に充足されるあの夢を。

そうだ、あの夢があった、とサイファーは奥歯を噛んだ。
心と躯がぴったりと寄り添う充足感。
幻想に過ぎぬと退けているにも関わらず、夢の中ではそれは確かにサイファーの腕の中にある。
繰り返しこみ上げる獣じみた欲望を、それはあますところなく受け入れ、満たしていく。
だが、狂ったようにかき抱くその相手が誰なのかは、永遠に解らない。
至福だけれど、悩ましくもどかしく、そして息苦しいまでの狂おしさに満ちた、あの夢。
──己のすべての飢餓感、枯渇感の元凶となった、あの忌々しい夢。

眼球だけで見回した部屋の中はじっとりと薄暗い。
どうやらまだ寝入りばなだったようだ。
喉の乾きを覚え、きしむ上体を起こそうとして、ふとサイファーは妙な気配に気づいた。
部屋の中に、何かがいる。
ぎょっとして身構えると、闇の中で気配が動いた。
それはゆっくりベッドに近付いて、ぼんやりと人の形を取り、柔らかい声を洩した。
「どうした。大丈夫か。」

カーウェイ中佐だった。
瞠目して息を呑んだサイファーに、中佐は声を曇らせる。
「‥‥声が。具合でも悪いのか?」
──隣室にも響く程の声でうなされていたのか。
サイファーは唇を噛んだ。
「なんでもねえ。‥‥夢を見ただけだ。」
「そうか。」
中佐はあっさりと頷いたが、踵を返そうとはしない。
まだ何かが引っ掛かるのか、そこに直立したままだ。
サイファーは顔を背け、所在なくシャツの襟を指に引っ掛けた。
うなされる声を聞かれたばつの悪さに加えて、汗を吸って重く湿ったシャツが不快だった。
「何を悩んでいる?」
ようやく口を開いた中佐の言葉に、サイファーは動きを止めた。
どうやら、中佐が立ち去らないのは、真剣にサイファーの身を案じているかららしいと気づいた。
この男は冷静ではあるが冷徹ではない。
サイファーの事も、この男なりに──その表現方法はいけすかないにせよ──気づかっている事は、この数週間で充分に解っている。
サイファーは溜息まじりにだらりと腕を投げ出した。
「いや。夢はいつもの事だ。‥‥いけすかねえ夢だ。」
「うん?」
薄闇の中で、中佐が眉をひそめる気配がした。
サイファーはのろのろとベッドに起き直った。
「‥‥解らねえ。俺は‥‥自分の求めてるモノが何なのかが、解ってねえ。」
「‥‥。」
「焦れってえし、苛つく。夢にまで見ちまうってえのに、その正体がまるで掴めねえ。」
自嘲に唇を歪め、暗がりに判然としない中佐の顔を横目に見やる。
「あんたの言う通りだ。‥‥俺はテメエ自身の事さえ把握しきれてねえ、ただのガキっつうことだ。」

中佐はついと踏み出すと、辛うじて表情が伺える距離まで近付いて歩を止めた。
その頬には、意外にもあの見下すような笑みはなかった。
整った白い顔は一見冷たく無表情だが、黒い瞳が曖昧な温度に揺れている。
「‥‥子供だからではないだろう。君が繊細だからだ。」
「なに?」
唖然として問い返すと、中佐は微かに頷いた。
「自分の求めるものが何かが解らないのは若者なら誰しも同じだ。ただ、凡庸な若さは、解らぬ事に苦悩するだけの繊細さを持ち得ない。」
「は。俺が繊細だっつうのか。」
「そう。吠えたがる犬ほど、実は繊細で傷つきやすいものだ。」
擦れた声がやすりのように、心の表面をざらりと撫でる。
茫然と見守っていると、間近に鼻梁が迫り、顎を掴まれた。
だが金縛りにあったように、なぜか身動きが取れない。
「‥‥険しい岸壁のようなプライドも、そばに近付いて仔細に目を凝らせば‥‥その表面は柔らかくて繊細だ。そよ風ひとつで傷つけられるほどにな。」
鼻先が触れ、呼吸が重なる。
中佐の息は煙草の香りがした。
「ただ、そばに近付いて見てみようとする人間が滅多にいない、というだけの事だ。」

煙草の香りが、鼻孔だけでなく唇からも滑り込んだ。
唇を重ねられたのだと気づくのに、数秒かかった。
ぎょっとして我に返り、中佐の身体を押し退けようとした時には、すでに薄い唇は離れていた。
中佐は何事もなかったかのように肅然と身を起こし、背中を向ける。
背中は滑るように暗がりの中を遠ざかり、ふつりと視界から消えた。
サイファーが呼び止める事などあり得ない、呼び止められる訳がないと確信しているかのような、落ち着いた足取りだった。

やがて微かにドアのきしむ音がして、室内は再び静けさに満ちた。
まるで、たった今、この瞬間までの出来事こそが、すべて夢だったかのように。

To be continued.
NEXTBACKTOP