SUCK OF LIFE(9)


9

「娘に会ったそうだな。」

なんの前置きもなく、中佐は笑いを含んだ声で呟いた。
いつも通り軍本部に向かう車中である。
車窓の外に相変わらずどんよりと垂れ込める厚い雲を苦々しく睨み付けていたサイファーは、のろのろと視線を振り向けた。
並んで後部座席に収まっている中佐は、前を向いたままだ。
車の振動に合わせて小刻みに震える薄い書類を膝の上で手にしているが、視線は落としてはいない。
書類に目を通している最中にふと気づいて独りごちた、そんな軽い調子だった。
「私が言うのもなんだが、なかなかの美人だろう。」
「‥‥興味ねえな。」
つっけんどんに切り返すと、端正な横顔が小さく喉を鳴らして笑う。
「意外だな、君はその方の手は早いと思ったが。」
「なに?」
訝しさに唇を歪めたサイファーに、中佐はあくまで世間話のようにさらりと言った。
「ティンバーあたりでは随分と有名人だそうだな、君は。」

正直、ぎょっとした。
そんな事まで、知ってやがるのか。
かっとこめかみに血がのぼり、一瞬視界が赤く染まる。
だが、咄嗟に声が出てこなかった。
むしろ臆したように喉が塞がってしまい、唇を噛む事しかできない。
それは恐らく、その激情が、怒りというより羞恥に近かったからなのだろう。
週末ごとの己の性癖を別に恥じるつもりはなかったが、この男に知られる事だけは訳もなく屈辱な気がしたのだ。
中佐は愉快そうに目の端でサイファーを盗み見た。
「引く手あまたらしいな。女には不自由してない身分という訳だ。」
「‥貴様‥‥。」
「残念だな、百戦錬磨の君の眼鏡にはかなわないとは。あれでも自慢の娘なんだが。」
「黙れ。言ったろう、ガキには興味ねえ。」
すると、ようやく中佐はサイファーの方を向いた。
射るような眼差しがじっとサイファーを見据え、だが口元だけは穏やかに微笑の形を保っている。
「確かにまだ年端もいかない子供だ。‥‥だがそれは君も同じだろう。」
「‥‥なんだと?」
「君は自分が大人だと思ってるのか?」

──からかわれているのだ、と思った。
虫酸が走り、舌の上に苦いものがこみあげる。
「俺はガキじゃねえ。」
「何を根拠にそう言える。力があれば一人前か? 女を抱ければいっぱしの男か?」
「‥‥。」
「むしろ、そうした虚勢を張るのは子供の証拠だ。」
微笑を引っ込め、代わりに苦笑とも溜息ともとれる吐息をついて、中佐は言った。
「子供というのは、得てして自分の未熟さを認めたがらないものだからな。」
あまりの正論に、反論できなかった。
鼻で笑う余裕すら失って、悔しさに歯噛みしながら再び車窓に目を転じる。
「‥‥悪かったな、ガキでよ。」
口の中で低く呟いた声が窓に跳ね返る。
窓の外を緩やかに流れていく幾何学的な街並は、曇天の元で立体感を失って、妙に薄っぺらく見えた。


その自慢の娘、リノアは数日後にひょっこりと帰ってきた。
公休日のその日、朝食の食卓で中佐が外出しないと言うので、また一日暇を持て余す事になるのかとうんざりしたところへ、この不良娘は突然乱入してきたのだ。
しかし彼女のそうした気まぐれは、この家では珍しい事ではないのだろう。
執事を始め使用人たちは慌てた風もなく、慣れた様子で手早くもう一人分の朝食を準備し彼女の席を整えた。
父親である中佐も例外ではなく、まるで寝坊した娘を嗜めるような調子で、早く席につけと言っただけだ。
「約束通り、帰ってきちゃった。」
テーブルを挟んで向かい合ったリノアは、サイファーに小さく舌を出して見せた。
なんと答えていいか解らぬまま仏頂面でああ、と頷くと、例の屈託のない笑顔が返ってきた。
「今日、お休みだよね。つきあってもらってもいいかな。」
「ああ?」
「久しぶりに市内も歩きたいし。デート、しよ?」
「‥‥デートだあ?」
呆気にとられ、咄嗟に中佐の方を窺おうとすると、それより早くリノアが父親に言葉を振った。
「今日一日、彼を借りてもいいでしょ、父様。」
中佐は緩やかに視線を上げ、娘ではなくサイファーの方を見た。
色の薄い唇に、意味ありげな笑みが浮かんでいる。
数日前の会話を思い出して、サイファーは憮然とした。
だが、父親とサイファーとの間に交された会話など知るよしもないリノアは、その笑みを単純に承諾ととったのだろう。
中佐の言葉は待たずにあっさりサイファーに向き直ると、じゃあ決まりね、と無邪気に声を弾ませた。
「今日は父様じゃなくて私の警護をよろしくね、護衛くん。」
「‥‥。」
ぴんと張りつめていた弦を唐突に緩められた弓のように、なんとも間の抜けた脱力感に襲われた。
だが、観念するしかない。
この娘のペースには、結局乗せられるより他はないのだ。

デリングシティのショッピングモールは、休日にも関わらずどこか閑散としていた。
人の数は決して少なくはないのに、活気とか生気というものがあまり感じられない。
あのごみごみしたティンバーの裏通りと比べては是非も無いが、人々は一様に緊張した面持ちで通りを足早に行き交うだけで、足を止めてウィンドウに見入る者もいなければ、世間話に興じる者もいない。
だが、通りの角ごとに立っている軍服姿の警備兵らの存在を思えば、致し方ないことだった。
常時戒厳令化にあるこの街で外を出歩こうと思ったら、常に監視の目を意識しなければならないのだ。
迂闊な振る舞いは、命取りになる。

「相変わらず、息がつまりそうだよね。」
ウィンドウ越しに通りを眺めながら、リノアは眉をひそめた。
殺風景なカフェテリアは、客の数もまばらで閑散としている。
店内にまではさすがに警備兵の姿はないが、入り口には歳若いガルバディア兵が緊張した面持ちで立っていたから、ここでも滅多な話はできない。
「私がちっちゃい頃は、ここももっと賑やかだったんだけどな。母と良く買い物にきたし、家族で映画を観にきた事もあるんだよ。ほら、そこの映画館。」
と、リノアは通りを挟んだ向かい側の建物を横顔で示した。
落ち着いた色合いの古い煉瓦造りの建物は、およそ娯楽とはほど遠い生真面目なミュージアムのようだったが、入り口に控えめに張り出されたポスターが、紛れもない映画館であることを示している。
どれぐらいの客の入りがあるのか疑わしいが、一応開いてはいるらしい。
さしたる興味も湧かぬまま、サイファーは所在なくコーヒーを口に含んでリノアの横顔に視線を戻した。
家を出てから、ろくに口をきいていない。
だが、リノアは気にしていないようだった。
むしろ、相槌しか打たぬサイファーに安堵しているかのように、次から次へと他愛もない話を繰り出す。
久しぶりに歩くというショッピングモールのひとつひとつの店を懐かしがって、ここは変わってないとはしゃいだり、ここは建物が変わっていると驚いたりした。
このカフェテリアも彼女にとっては馴染んだ場所なのだという。
「この先にあるホテルでね、母はピアノを弾いてたの。父と二人で、母を迎えに行った事があって、その時ここで父がホットチョコレートを飲ませてくれたんだ。ホントにこーんなちっちゃい頃ね。」
サイファーに向き直ったリノアは、テーブルの高さに掌を掲げて笑った。
そして、ふと遠い目をしてみせる。
「母が生きてた頃の父は‥‥優しかったな。父の事も母の事も、大好きだった。‥‥あ、でもだからって今の父が嫌いな訳じゃないよ?‥‥ただ、考え方が違うっていうだけ。」
「‥‥ひとつ屋根の下で暮らせねえ程に、か。」

唐突なサイファーの言葉にリノアは目を見張ったが、すぐに曖昧な笑顔を浮かべた。
「‥‥父のやってることが、私には納得いかないの。」
首を振ると、しなやかな黒髪が頬にかかった。
小さなテーブルごしに、優しい石鹸の香りが鼻をくすぐる。
「物心がついてから、何度も父と話し合ってきた。だけど、父の『仕事』はやっぱり許せないんだ。‥‥ううん、許せないのは、そういう『仕事』に甘んじてる父自身のことかもしれない。」
「甘んじる?」
「うん、そう。‥‥自分の『仕事』が決して誇れるモノじゃない事は解ってるって父は言うの。でも、それでもこれが自分に課せられた『仕事』なんだ、って。そう割り切るのがオトナなんだって。でもそんなの、逃げる口実だよ、そうじゃない?」
「‥‥。」
「本当は、いくらだって自分で変われることや変えられることもあるはずなのに。そうしようとしない怠慢な大人の言い訳だよ。」
内心、サイファーは驚いた。
見るからに子供子供していているリノアが、意外にも明解な意見を持っている事に素直な感嘆を覚えたのだ。
何も考えていないようでいて、リノアはリノアなりに物事を冷静に見極めている。
そういうところも、或いは父親譲りなのかもしれない。
リノアはふと遠い目をすると、再び口を開いた。
「一年くらい前にね。友達のお父さんが‥‥逮捕されたの。国家反逆罪の嫌疑で。」
あたりを憚るように声をひそめ同時に眉も顰めてみせる。
「もちろん、冤罪なんだよ?でも結局、軍法会議で有罪になって、収容所送りになっちゃった。‥‥濡れ衣なのにどうしてって父を責めたけど、父は取り合ってくれなかった。気の毒だとは思うけど、軍の決定には逆らえない、って。」
「‥‥いかにもな理由だな。」サイファーは低く相槌を打った。
「それであんたは家出したって訳か。」
「うん、そう。今はティンバーにいるの。ティンバーの友達の実家で、お店を手伝わせて貰ってる。あと‥‥」
と、一旦言葉を区切り、大きな黒い瞳がじっとサイファーを見据えた。
「‥‥レジスタンスのね、手伝いもしてるんだ。」
「なんだと?」
「しーっ、内緒なんだから!」
思わず身を乗り出したサイファーに、リノアは慌てて唇に指を立て窓の外に立つ警備兵の姿に視線を走らせた。
サイファーはどうにか言葉を飲み込むと、狭いソファに浅く座り直して長い脚を組み替えた。
リノアはほっと小さく息を吐く。
「今はね、まだ夢みたいな話かもしれないけど。いつかティンバーをガルバディアから独立させようって、みんな頑張ってるんだ。」

──夢みたいな話、どころではない。
レジスタンスへの所属は明らかな反逆罪だ。
サイファーは口内に広がる苦い唾液を飲み込むと、低く問わずにおれなかった。
「知ってるのか。」
「え?」
「あんたの親父は。それを知ってるのか。」
「まさか、知らないよ。」
リノアは目を見張って、いつもの笑顔で首を振った。
「言える訳、ないよ。軍幹部の娘がティンバーのレジスタンスに通じてるなんて。」

だがサイファーは、先日のデモ隊に遭遇した時の事を思い出していた。
あのレスジタンスらがティンバー絡みでない事を確認した時、中佐の横顔に一瞬よぎった、あの安堵の表情を。
──要するに、知らぬは娘ばかり、という事か。
無邪気と言うか、無知と言うべきか。
だが、この無邪気な少女の内に秘められた鋼のような強い意志と行動力には、不思議と心が騒いだ。
それは、奇妙に新鮮な気持ちだった。
リノアは、自分とはまったく違う境遇で育ってきたはずだ。
自分にはない「家族」を持ち、両親の愛情を受けてきた。
にも関わらず、その父親と反目しあってまで、貫こうとしている意志がある。
家族や親との絆なんてものはサイファーには想像の及ばぬ代物だったが、しかし知識としてそれが誰にとってもかけがえのないものであることは知っている。
それなのに、その絆を退けるほどの意思があるという事実に、一種の驚嘆を覚えたのだ。

もしかしたらリノアは。
サイファーが探し続けながらも得られずにいるものをすでに持っているのかもしれない。
己が進むべき道も、自分が満たされる術も、何ら迷うことなく心得ているのかもしれない。
そして、それだからこそ、かくも天真爛漫に笑い、屈託なく振るまえるのではないのか。

口を噤んだまままじまじと注視し続けるサイファーに、リノアは少しはにかんだように肩を竦め、テーブルに肘をついて窓の外を眺めた。
「あ。あの映画見たいな。」
のんびりとした口調に、サイファーは我に返った。
「映画?」
「今、あそこでやってる映画。ほら、ポスター出てるでしょ。」
先程の向かいの映画館の入り口を指差して、リノアは小首を傾げる。
「二十年くらい前のリバイバル。魔女の騎士のお話。確か小さい頃、やっぱりリバイバルで母様と見た事があるんだ。」
「‥‥騎士? 騎士が魔女を守るのか。」
「うん。魔女って言っても悪い魔女じゃないの。いい魔女のお話ね。」
指先につられて遠目のポスターを眺め、サイファーは喉の奥で曖昧な相槌を打った。
「エスタの魔女は悪い魔女だったけど、今は行方不明だし。きっと世界のどこかには、いい魔女もいるよね。そういう、いい魔女を守る騎士なんだよ。」
そう言うリノアの声が、なぜか急に、ぼんやりとくぐもって聞こえた。
周囲の音と光がすうっと遠のき、一瞬何かが脳裏に蘇りそうな既視感を覚える。
だがそれはほんの刹那だったし、あまりに曖昧すぎた。
「どうしたの?」
びっくりしたようなリノアの顔に、サイファーはなんでもねえ、と眉をしかめた。
‥‥何かの、気の迷いだろう。
捉え所もないままに過ぎ去ったその奇妙な感覚をやりすごし、サイファーは再び脚を組み換えた。
どこかに何かが引っ掛かっているような気はしたが、あえて追求する程のことでもない。
それよりも、くるくるとよく変わるリノアの表情をつぶさに眺めることの方が、今の自分には大切かつ必要であるように思えたのだった。

To be continued.
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