SUCK OF LIFE(3)


3

久しぶりの喧噪が、当たり前のようにサイファーを呑み込んだ。
野卑な声とけたたましい物音が渦巻き、爛れた熱気に満ちているティンバーの裏通り。
けばけばしいネオンサインも、むせ返るような人混みも、不潔な壁も、汚らしい路地も。
すべてが相変わらずだった。
一週間の謹慎が解けて自室から出る事は許されたものの、その後も結局三週間ガーデン内に拘束される事を余儀なくされ、都合一ヶ月ぶりのこの雑踏だ。

ティンバーの裏通りは複数の路地から成り立っているが、それぞれの通りが独立したひとつの街の様相を呈している。
表通りのすぐ裏に位置する路地とそのもう一本奥の路地は、比較的健全な飲食店やクラブハウスが並び、ごく有り触れたアベックの夜のデートコースにもなっている。
治安も行き届いており、揉め事が起きる事も稀だ。
しかしさらにもう一本奥の路地に入ると、様相は一変する。
良識のある一般の人々は、決してそこまで足を踏み入れる事はない。
そこは小汚らしいモーテルや飲食店や非合法の賭博場が軒を連ね、中には一見して店鋪とは判じ難い店も多い。
通りの喧噪ぶりは、まさに無法地帯と呼ぶにふさわしく、どぎつい照明が雨のように降り注ぐ中、あちこちで怒号と罵声そして嬌声が上がり、息苦しい程のアルコールとドラッグの匂いが常に充満している。
諍いや暴力が無秩序に横行し、強盗や傷害も後を立たない。
何も知らぬ人間が一度踏み込んでしまったら生命の保障は出来ない。
そういう危険地帯なのである。
往来を闊歩しているのは、自堕落と自暴自棄を絵に描いたような若者がほとんどだ。
まっとうな社会生活からドロップアウトしてここに流れ着き、モーテルや路上に寝泊まりしている彼らはほとんどが職を持たないが、中にはドラッグの売人をやったりいかがわしい賭博場のボーイをやったり、女なら売春まがいの事をして生計を立てている者もいる。
そうして終始、感情と時間とを持て余し、地下にスペースを構えるクラブの狭い入り口や、路肩やモーテルのドアの前にたむろして、意味もない小競り合いを繰り返しているのだ。

サイファーが初めてここに来たのは、一年ほど前だった。
一本前の通りで女に声をかけられ、誘われるままに足を踏み入れたのである。
ガーデンの学生およびSeeDにとってティンバーの繁華街は馴染みの深い遊興地だし、表通りに近い二本のストリートにはガーデンご用達のクラブも何軒かあって、SeeD連中の溜まり場になっているが、当然ながら、彼らはこの奥の路地にまでわざわざ足を運んだりはしない。
「エリート」としての意識を植え付けられている彼らにとって、ここは到底縁のない世界だ。
だがしかし、ここの喧噪は不思議とサイファーの肌に合った。
サイファーがガーデンSeeD候補生である事を知る者は誰もおらず、決して顔見知りに出会う事もない、というのも気に入った。
以来休暇のたびにここに入り浸るようになったのだ。

久々のこの空気にどこか安堵を覚えながら、ゆっくりと歩を運ぶ。
ごったがえす歩道を悠然と闊歩していくと、あちらこちらから背中に視線が突き刺さる。
恨みがましい尖った視線は、恐らくかつて殴り飛ばした連中のものだろう。
具体的にどこの誰なのかは、記憶が煩雑すぎていちいち覚えていない。
ここに通い始めた当初に、何かと因縁をつけられ数えきれぬ程の喧嘩を売られたからだ。
もっとも、幾度かそれらを買っている内に、次第に手も口も出されなくなり、結局こうして遠巻きに畏怖とも誹謗ともつかぬ視線を送られるばかりになった。
おかげで、今ではすっかりそれと知られた有名人だ。
週末ごとにふらりと現れる、歳若いくせに妙に大人びた風情でやたらと腕が立つ白いコートの男の事は、ここの誰もが知っている。

ただ、それだけ顔を知られていても、サイファーの正体を知る人間は相変わらずいなかった。
彼らは一様に、サイファーの素性は愚か、名前さえ知らない。
サイファー自身、自ら名前や素性を明かした事などなかったし、面と向かって問い質されたとしても無視すると決めていた。
正体を知らしめるなど、必要もなかったし興味もなかったからだ。
あえて誰かと心安くなどなりたくはない。
サイファーがここを訪れる目的は、ここで顔を売ることでもなければ、ここに馴染むことでもない。
目的は、ただひとつ。
女を、抱くことだ。
それ以外に、一切興味はない。
ここに来れば相手に不自由しない上、後腐れもしがらみもなく女が抱ける。
ただそれだけの理由でここに足を運んでいるサイファーにとって、素性を知られる事などむしろ邪魔でさえあったのだ。

敵意に満ちた数々の眼差しをいなしていると、それらの中に時折ねっとりと絡み付くような視線がちらほらと混じっているのが解る。
その熱を帯びた視線だけを慎重に選り分けながら、サイファーは目線を走らせた。
ブルネットの女。浅黒い肌の女。
ボンテージファッション崩れの女、痩せた頬に唇ばかりが血のように紅い女。
悩ましげに腰をつきだす女。
これみよがしの微笑を浮かべる女。
そのほとんどが、サイファーよりも年嵩の女達だ。
最初の頃は驚嘆と不審の混じりあった視線を向けるだけだった彼女達も、いつの頃からかこんな露骨なアプローチを自ら仕掛けてくるようになった。
どうやら彼女らの間では、白いコートの男をモノにする事が一種ステータスになりつつあるらしい。
いつだったか抱いた女が、これであの女に勝ったわ、と独りごちていたのを思い出して、思わず苦笑が漏れる。
だが。
サイファーは唇を歪めたまま、視線をそらした。

どういう訳か、今日は気が乗らなかった。
いずれの女の媚態にも、歩みを止める気になれない。
一ヶ月の謹慎で、勘が鈍ったとでもいうのか。
馬鹿馬鹿しいとは思うが、あの燃え盛るような欲求がどうしても身の内に湧いて来ないのだ。
いつのまにか通りをほぼ縦断してしまい、気がつけば人もまばらで、街路の終端に差し掛かっていた。
雑踏に紛れている時は気付かなかった晩秋の冷たい夜風が、コートの裾を膨らませて通り過ぎていく。
サイファーはようやく足を止めた。
踵を返しもう一度雑踏に戻るべきか否か、なんとなく決め倦ねていると、ふと視界の隅の路地に注意が向いた。
そういえば、あれは。
謹慎になる一ヶ月ばかりも前だったか。
(‥‥ここ、だったな。あの野郎とでくわしたのは。)

角を折れざまに、金色のトサカ頭にぶつかった。
驚愕に見開かれた、蒼い双眸。
あどけない鼻筋、ふっくりとした唇。
肩程にも満たない小柄な体、頬を彩る漆黒のトライバル。
ガーデンで見慣れたはずのその姿を、よもやこんな場所で見い出すとは咄嗟に信じられなかった。
だがこんな場所でも、ゼルは相変わらずゼルだった。
サイファーの言葉にいちいち過敏に反応していたあの紅い頬が脳裏をよぎり、思い出し笑いを噛み殺す。
と同時に、あの時感じた異様な感情の事まで想起しかかって、慌ててサイファーは笑いを引っ込めた。

まったく、なんだってあんな血迷った感情を抱いたものか。
今になって思えば、自分の抱いた妄想に怒りすら覚える。
確かに病的な渇望に駆られて女を抱き続けてはいるが、だからといって男を抱くほど落ちぶれてはいない。
女には不自由などしていないというのに。
やはりあの時は神経回路がトチ狂っていたのだとしか思えない。
頭を振って思考を押し退け、サイファーは踵を返した。
どうあっても女を抱いてやる、と半ば意地になっていた。
ポケットに突っ込んだ皮手袋の両掌を軽く握り、コートの裾を翻して足を踏み出す。
と、その時だった。

「やめてよ! 急いでるんだから!」

背後で上がった甲高い声に、サイファーは振り返った。
突然、件の角から飛び出してきた小柄な人影が、立ち止まったサイファーの背中にぶつかりそうになって、前のめりに脚を止めた。
女だった。
それも、少女といってもいいくらいに歳若い。
はっと瞠目してサイファーを見上げた女の後ろに、入り乱れた足音がばらばらと近付く。
程なく角の向こうから、野卑な笑いを含んだ声と共に、数人の男が姿を表した。
「おい、待てよカノジョ。」
「逃げることねえだろ!」

女は慌ててそちらを見遣り、再びサイファーの顔に視線を戻して泣きそうな顔になった。
その表情がいっそう幼く見えるが、実際の歳はサイファーといくらも変わらないだろう。
縋るように見つめる、大きな黒い瞳と輪郭のくっきりとした眉も、今は子供のように怯えてはいるが、その芯には凛とした強固な意志を秘めていそうだった。
育ちの良さを伺わせるふっくらとした白い頬には、走ってきたためだろう仄かな赤みが浮かび、その頬には長いストレートの黒髪がわずかにもつれて貼りついている。
どうみても、こんな時間にこんな場所をうろうろするには似つかわしくない女だ。
ましてや、連れもなく独りきりらしい。
これでは暇を持て余しているごろつき共に、絡んで下さいと言っているようなものだ。
そして実際、絡まれたものに違いない。

サイファーは舌打ちすると、手の甲で女の肩を乱暴に横に押しやった。
「あ、あの‥‥。」
狼狽した女は何か言おうとしたが、押し退けられ、よろめいて、口を噤んだ。
角を曲がってきた男達は、目の前に立ちはだかる長身の男の姿に気付いて、ぎょっとして立ちすくんだ。
それぞれの顔から下卑た笑みがすうと消え、中には一瞬で青くなった者もいる。
男らは四人連れだった。
先に立って角を曲がってきた二人は穴の開く程サイファーの顔を凝視して、畜生、と声にならぬ声で呟いた。
後ろの二人は明らかに臆した様子で、早くも腰がひけている。
サイファーにとってはまったく見覚えのない連中だったが、向こうは間違いなくサイファーの事を聞き及ぶかあるいは見知っているらしい反応だった。

「この女になんか用か。」
顎をしゃくると、彼らは気圧されたように後ずさった。
先頭にいた男が青ざめた唇を引きつらせ、それでも虚勢のつもりか無理矢理胸を反らして問い返す。
「あ、あんたの知り合いなのかよ、その女。」
「だったらどうした。」
四人はますます紙のように白くなり、互いの顔を見合わせた。
ひそひそと何ごとかを囁き合い、しきりに互いを小突きあう。
しかし結局、最後に恨めしげな視線だけを残して、彼らは次々と踵を返し始めた。
見当違いな方向に意味不明な罵倒を吐きながら、そそくさと抜きつ抜かれつ元きた角の向こうへと消えていく。

男達が去り、しんと冷えた夜の空気が戻ってくる。
傍らで呆然として成り行きを見守っていた女が、我に返ったようにサイファーの顔を仰ぎ見た。
「あ、あの。ありがとう。」
だが、サイファーは無視して歩き出した。
女は慌てて後を追い、サイファーを追い抜いて前に走り出た。
「待って! あの、本当にありがとう。」
驚愕から覚めやらぬ黒い瞳が、大きく見開かれたままサイファーをじっと見つめる。
行く手を塞がれ、立ち止まらざるをえなくなった忌々しさに唇を歪めながら、サイファーは首を振った。
正直、煩わしかった。
別に助けたくて助けたわけではない。
ただの成り行きに過ぎなかったし、こんな子供子供した女に興味はない。
しかし彼女は前に立ちはだかったまま、動こうとしなかった。
「友達を探してたらうっかり迷っちゃって。からまれてしつこくされて困ってたんだ。普段はこんなところまで来ないんだけど。」
サイファーの不機嫌な表情などまったくおかまいなしに、屈託なくそう言って微笑む。
ふっくりとした唇から、きれいな歯並びがこぼれた。
人の警戒心をいっぺんで解き得てしまうような、人なつこい笑顔だった。
おかげで、初対面にしては砕けすぎている口調も不思議と違和感がない。
「ね、君、強いんだね。ひとにらみであいつらを蹴散らしちゃうなんて。びっくりした。」
そういう声は、まるで無邪気な子供が無類の英雄に出会った時のような素直な興奮と賛嘆に満ちている。

妙な女だ、とサイファーは思った。
美人といっていい顔立ちなのに、こんな間近にいても女の色香というものがまったく感じられない。
あまりに、無防備すぎるのだ。
無邪気すぎて、女という性を感じさせる暇がない。
毒気を抜かれるとはこういう心境を言うのだろう。
同時にふと、もやもやとしたもどかしさがこみ上げた。
こんな無防備さ無邪気さに、どこかで出会ったような気がする。
この女に見覚えはまったくないというのに。
それとも、出会って忘れているだけなのだろうか。
思わず、どこかで会ったか、と問い質しかけて、咄嗟にサイファーは口を噤んだ。

これ以上、こんな所で無駄な関わり合いを持つつもりはない。
下手げな事を言って、口説き文句だと誤解でもされたら厄介だ。
こういう時は、無言で無視を決め込むに限る。
そこで、目の前から退こうとしない彼女にはお構いなしに自ら横に身を躱して歩き出そうとした。
と、彼女はまたもや素早くサイファーの行く手を遮って、早口に言った。
「あ、あたしリノアっていうの。リノア・ハーティリー。君、名前は?」
揺れた黒髪から、清潔感のある香りがふわりとたちのぼって鼻をくすぐる。
しかしその柔らかな香りも、サイファーの胸には微かな失望と新たな苛立ちを呼び起こしただけだった。

なんだ、結局こいつも女か。
単に未熟というだけで、所詮女は女に過ぎないのだ。
聞きもしないのに勝手に名乗り、名前はとか住まいはとか詮索してくるのは、女という生き物のセオリーだ。
こっちはもう二度と関わるつもりなどないというのに、この行きずりの出会いに意地でも何らかの意味を持たせようとする。

仏頂面のまま唇を引き結び一言も発しようとしないサイファーに、女は不思議そうに瞬いた。
自ら名乗り名前を求めたというのに、こんな不遜な反応をされたのはかつてない経験だったのだろう。
それは、生まれてこのかた愛されるのが当たり前の人生を送ってきた人間の顔だった。
いわば、愛玩されて育った小兎が生まれて初めて狼に出会い、それが天敵であると理解さえできていないようなものだ。
サイファーは一種憐れみにも近い視線で女を見下ろすと、今度こそ強引に女の横をすりぬけてその場を歩き出した。
さすがに、もう女も追ってはこなかった。

振り返るどころか脇目もふらず、まっすぐに喧噪の路地へと再び足を踏み入れる。
喧噪の中、粘っこい視線が、肩に、背中に絡み付く。
だが、サイファーはすでに褪めていた。
淫らな湿気をはらんだここ特有の淀んだ空気を肩でかきわけ、その猥雑さに身を任せながらも。
もはや今夜は、女を抱く気には到底なれそうもなかった。

To be continued.
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