SUCK OF LIFE(8)
8
二週目に入ったある日、朝食の席に降りて行くと中佐は居なかった。
執事の話では、緊急の極秘会議があるとの事で、軍の人間が早朝に迎えに来たのだという。
そのため、今日一日サイファーは休暇を取っていいとの伝言だった。
私的な護衛に休暇があるなんておかしな話だが、私的であるが故にこうした事も起こりうる。
ガルバディア軍にとってサイファーは所詮外部の人間であるから、軍としてはできれば内状を晒したくないのだ。
無論SeeDは、クライアント先の情報はいかなる事情があろうと秘匿する義務がある。
任を解かれてガーデンに戻っても、クライアントの承諾なしに情報を漏洩してはならない。
だがそんなSeeDの規約など信用ならぬ、というのが昔からガルバディア軍の言い分だった。
そのため彼らは、これまでガーデンに物理的即戦力としてたびたびSeeDの能力を求めながらも、こうした軍内部の情勢に関わるような任務への要請は、滅多に寄越した事がない。
軍要人の公私に渡る護衛など、本来ならあり得ない任務なのだ。
そう考えると、中佐のとった行動がいかに個人的で突飛で独断的なものであったかが解る。
中佐のガーデンへの護衛要請は、軍内部ではおそらく多大な反感を買ったことだろう。
にも関わらず中佐が要求を押し切れたのは、軍における中佐の権力がそれだけ大きいという事であり、そして同時に。
中佐が、いかにサイファーというひとりのSeeD候補生に本気で執着しているかという証でもあった。
突然降ってわいたこの休暇を、サイファーは持て余した。
休暇と言っても、する事などない。
デリングシティの街並は性に合わないから、外に出る気にもなれなかった。
常に厚く垂れ込めた曇天模様の空の下、不自然な笑顔とわざとらしい喧噪に満ちた街路を歩くぐらいなら、寝て過ごした方がましだった。
そこで中佐の書斎にある馬鹿でかい本棚から、適当に引っ張り出した本を眺めて過ごす事にした。
中佐の趣味なのだろう、彼の蔵書は黴臭い骨董書がほとんどである。
さして興味も湧かなかったが、この際構わない。
部屋に戻ってベッドに横たわり、上の空で頁を眺めていると、本の中身の冗長さも手伝ってついうとうとと微睡んだ。
その微睡みが突然の喧噪に破られたのは、そろそろ昼も間近の頃だったろう。
我に返ると、遠くで誰かが途切れ途切れに何かを叫んでいた。
同時に、階段を上がってくるらしいぱたぱたと慌ただしい足音がする。
一瞬、中佐が戻ってきたのかとも思ったが、常に落ち着き払っている中佐のそれとは明らかに違う種類の足音だ。
叫び声はどうやら執事のものらしく、普段は寡黙な彼の嗄れ声が、お待ち下さいとか、御主人様がとか、ご連絡をとかいう単語を苦しげに連発している。
状況が、まったく解らない。
起き上がりはしたもののベッドの上で憮然としていると、いきなり目の前のドアが開かれた。
飛びこんできたのは、女だった。
いや、女と言うより少女と言うべき歳若さだ。
サイファーと目が合った彼女はぎょっとしたように立ちすくみ、ドアノブを掴んだまま硬直した。
が、すぐにふわりと肩の力を抜き、訝しげに顔をしかめて呟いた。
「‥‥君。だれ?」
「ああ?」
聞きたいのはこっちだ。
片眉を吊り上げたその時、ようやく階段を登ってきた執事が、彼女の背後から狼狽した口調で告げた。
「お嬢様、その部屋は客人がお使いです。」
「お客さま?」
彼女は斜めに執事を振り返ったが、執事が答えるより先に再びサイファーに向き直った。
「あ!じゃあ、君が護衛に来ているひと?」
「‥‥。」
「そっかあ、ごめんなさい! 聞いてたんだけど忘れてたの。」
ほどけるような笑みを浮かべて、彼女は執事に大丈夫よ、と言った。
執事はほっとしたように階下に戻っていく。
だが彼女はそこに立ったまま、出ていくでもなく入ってくるでもなく、まっすぐにサイファーを見つめて、突然ぴょこんと頭を下げた。
「本当、ごめんなさい、父がお世話になってます!」
‥‥なるほど。これが中佐の娘か。
面喰らいながらも、ようやくサイファーは合点がいった。
ふらふらしてばかりで家になかなか寄り付かないというじゃじゃ馬娘が、何のきまぐれか突然帰宅してきたのだ。
改めてまじまじと見直してみれば、なるほど中佐の面影があった。
鮮やかな空色のワンピースからすらりと伸びた手足の、抜けるように白い肌。
それとは対象的に、肩まで垂らした長く艶やかな黒髪。
くっきりとした暗褐色の瞳も中佐のそれと同じ色だ。
加えて形は良いがやたらと意志の強そうな眉も、父親ゆずりのものだろう。
顔立ちだけで言うなら、明らかに美人の部類だった。
ただ、丸みのあるふっくらとした頬や上向き加減の桜色の唇は、まだ大人になりきれない少女の部類である事を主張している。
歳の頃ならサイファーと近い、と中佐は言っていたが、おそらく十四、五歳だろう。
と、サイファーは既視感に囚われた。
この女。どこかで会った事がある。
だが、どこでだったろう。
不審に眉をひそめた時、それは伝染したかのように女の顔にも現れた。
「‥‥あれ‥‥前に会った‥‥よね?」
彼女は小首を傾げると、唐突につかつかと歩み寄ってきた。
そして無遠慮に顔を覗き込むと、ああ、と突然掌を打ち、頓狂な声を上げた。
「思いだした! ティンバーで助けてくれたよね、ほら、あの裏通りで‥‥!」
咄嗟に、何の事だか解らなかった。
だが、彼女の弾んだ声と黒髪からたちこめる石鹸の匂いが、徐々に朧げな記憶を手繰り寄せた。
「‥‥ああ‥‥会ったな。」
初めて発した言葉は、芒洋とした掠れ声だった。
ようやく蘇ったあのティンバーの路地での一幕。
だがそれに加え、何か他にも思いださなければならない事があったような気がして妙な気分だったからだ。
しかしとにもかくにもサイファーが口をきいてくれて、しかも肯定してもらえたので、彼女は充分満足らしかった。
「よかった、覚えててくれたんだ! 名前は‥‥忘れちゃった? リノアだよ、リノア・ハーティリー。」
「‥‥ハーティリー?」
片眉を吊り上げると、リノアは頷き、一瞬気まずそうに視線をはずした。
「うん。母のね、姓なの。なんていうか‥‥その、色々あるんだ。」
‥‥病死したとは聞いたが、別れたとは聞いていない。
だが、あえて問い質す迄もなく、サイファーは何となく納得がいった。
彼女は、戸籍の上ではれっきとした「リノア・カーウェイ」であるに違いない。
それをあえて母方の姓を名乗っている所にこそ、この娘の主張があるのだ。
父親に反発し、家を飛び出したまま滅多に帰ってこないという、このじゃじゃ馬娘なりの主張が。
サイファーが追求せずに黙っているので、リノアはほっとしたようだった。
すぐにまた晴れやかな笑顔に戻って、ベッドに腰掛けたままのサイファーを見下ろす。
「ね、それより君の名前は?」
「‥‥。」
「ティンバーじゃ教えてくれなかったよね。‥‥あ、待って! 確か護衛くんの名前、聞いてたんだっけ。」
待つも何も、もう口を開く気などなかったのだが、リノアは掌でサイファーを制する仕種をすると、残る手の甲を額にあてて思案顔を作ってみせた。
白い掌が所在なく握ったり開いたりを繰り返す。
その下で潜められたくっきりとした眉に、何とはなしに見とれた。
やがて、猫みたいに細められた黒い瞳が辿々しくサイファーを伺う。
「ええと‥‥サイファ‥‥うん、サイファー・アル‥‥マーシ?」
「アルマシーだ。」
咄嗟に言い返してしまって、げんなりした。
これでは、誘導尋問に引っ掛かったみたいではないか。
だがそんなサイファーをよそに、リノアはにっこりと微笑む。
「そっか、よろしくねサイファー。じゃあ、私の名前も今度は覚えてくれるよね?」
そう言ってぴんと背筋を伸ばし、深々とおじぎをしてみせる。
その仕種はひどくおどけていて、さすがのサイファーも失笑せざるを得なかった。
どうやらこの娘の子供っぽい無邪気さは、わざとでも策略でもなく、天然らしい。
つまりはこれがこの娘の、リノアの性なのだろう。
生まれながらにして敵を作らないタイプの人間というのは確かにいる。
サイファーとは、対極に位置する存在だ。
「にしても、また会えるなんてすっごい偶然。」
両腕を背中で組んで、リノアは屈託なく笑った。
「神様って色んな悪戯するんだね。」
「神様?」
「だってそうとしか思えないでしょ、こんな偶然滅多にないよ? こういうのを運命的出会いって言うんだよねきっと。」
サイファーは唇を歪めた。
「‥‥どんな偶然でも、起こる時は起こる、起こらねえ時は起こらねえ。それだけだ。」
「それだけ?」
「起こっちまえば偶然じゃねえ。神も悪魔も関係ねえってことだ。」
リノアはきょとんとして、ぱちぱちと瞬いた。
「‥‥へえ? 君、すっごい大人な事言うんだね。」
あんたが子供っぽすぎるんだろう、と言いかけて黙った。
いつのまにかリノアのペースに呑み込まれている自分に気づいたからだ。
この手の無邪気さは、知らず知らずのうちにこちらの警戒心を解いてしまう。
堅く張り巡らせた鉄条網の隙間を潜って、いとも簡単にするりと忍び込んでくる。
「ね、私、今は訳あって友達のところに居候してるんだけど。」
僅かに首を傾けたまま、リノアは真剣にサイファーを見つめた。
「また近いうちに帰ってきてもいい? 君ともっと色々話してみたいな。」
ペースに乗せられていると解っても、しかし不思議と不快ではなかった。
むしろどこか懐かしいような、安堵感さえ感じた。
なぜなのか、自分でも良く解らない。
ただ、今まで出会った事のないタイプの女である事は確かだし。
この女との間には、ただの行きずりに過ぎないと無視するには少々憚られる縁があるのも確かなようだ。
それならそれで、縁に従い、つきあってやっても構わないのかもしれない。
そんな、どこか寛容な気になった。
改めて見てみれば、あえて厭うべき類いの女でもない。
いやむしろ、好ましいと言った方がいいだろう。
相変わらず女としての性は感じられないが、この天真爛漫さには間違いなく惹かれるものがある。
サイファーは口端だけを歪めたまま、好きにしろ、と言った。
「ここはあんたの家だろ。俺に許可を取るのは筋違いだ。」
皮肉めいた返答にリノアは僅かに目を見張ったが、立ち直りの早いのも彼女の特技らしい。
「そっか、そういえばそうだね。」
照れたように笑って身を翻し、ドアノブに手をかける。
「じゃあ、約束ね。きっと会いに来るから!」
そう言って小さく手を振ると、リノアは部屋を出て行った。
残された仄かな石鹸の香りが、清涼剤のように鼻をくすぐる。
淀んでいた部屋の空気までもが、いつのまにかふわりと軽くなったような気がした。
To be continued.
NEXT*BACK*TOP