夕暮れ(3)
3
それからしばらくの間は、何事もなく過ぎた。
夏の気配はすっかりなりをひそめ、乾いた午後の風が秋の匂いを運んでくる季節になっていた。
ハイネは何も言ってこなかったし、ゼルも問い質すのを忘れたまま、幽霊列車のことなど半分記憶の底に埋もれかけていた、ちょうどひと月めの金曜日の放課後。
教室を出ようとしたゼルは、突然ハイネに呼び止められた。
「今度の月曜日。実行するからな。」
「え?」
「え、じゃないだろ。忘れちゃったのかよ。幽霊列車。」
早口に耳打ちされ、ゼルはぎょっとして硬直した。
そうだ、あれから一ヶ月。
噂通りひと月に一度通る特別列車ならば、今度の月曜はその日にあたる。
ハイネは、忘れていたわけじゃなかった。
本当に、本気だったのだ。
ゼルは慌てて首を振った。
「わ、忘れてねえ、よ。」
「学校終わったらすぐ行くから。準備しとくんだぞ。いいか、誰にも言うなよ。」
あたりを憚るようにそう言って、ハイネはそそくさと離れた。
ゼルは解った、と深く頷いたが、頷いてから少しだけ不安になった。
確かに、知らない世界は見てみたい。
その思いは消え失せた訳じゃないし、むしろ強くなる一方だ。
けれど、でも。
あの、幽霊列車に乗るなんて。
いくらこの目で見たと言っても、正体の解らない怪しい列車であることに変わりはない。
大人に相談もせず行き先も告げず、子供だけでそんな遠出をする後ろめたさもある。
すぐに戻って来られればいいけれど、そんな保障はどこにもないし。
もしすぐに帰れなかったら、きっと父さんも母さんもすごく心配するだろう。
学校に知れたらそれこそ大騒ぎになるかもしれない。
ハイネはああ言うけど、やっぱり誰かに相談した方が──。
──いや、駄目だ。
それじゃハイネを裏切る事になる。
生徒らが、軽くゼルの肩にぶつかりながら次々と教室を飛び出していく。
ゼルは棒立ちのまま唇を噛み、懸命に自分に言い聞かせた。
──何、不安になってんだ。しっかりしろ、オレ。
こんなんだから‥‥チキン呼ばわりされるんじゃんか。
大丈夫。
ひとりで行くわけじゃない、ハイネ達がいるのだから。
きっと大丈夫、大丈夫に決まってる。
そう無理矢理納得した頃には、教室にはもう誰も残っていなかった。
ゼルは沈んだ足取りで教室を出て、家路についた。
月曜日の放課後、家に着くなり通学用のバッグを放りだし、かわりにショルダーバックを引っ掴んで、速攻で家を出た。
母親には、ハイネたちとストラグルバトルの練習をするのだ、と嘘をついた。
罪悪感でまともに母親の顔が見られなかった。
何時に帰るのと尋ねる声も背中に流して、すべてを振り切るようにポーチに飛び出し、走りだす。
斜めにかけたショルダーバックがやたらに重くて、何度も足がもつれて転びそうになった。
バッグが重いのは、昨日の夜の内にそっと冷蔵庫から持ち出したミネラルウォーターのボトルのせいだ。
他にもスナック菓子の箱とか、なけなしの小遣いとか、念のための列車の時刻表とか、そんなもので布製のバッグはぱんぱんに膨れ上がっている。
夕方まで間もない午後の日差しが、静かに住宅街を染めていた。
人通りはほとんどなく、一目散に駆け行くゼルの姿を見とがめる者は誰もいなかった。
待ち合わせているセントラルステーションまで、いつも学校に行く道筋通りに路地裏を辿った。
学校の前を通り過ぎ、商店街を抜けて行けばすぐにセントラルステーションだ。
商店街は夕刻の買物客でさざめいていて、いつもシーソルトアイスを買う雑貨屋には数人の子供らがたむろしていた。
息を切らせて駅前広場に駆け込むと、街灯の下にハイネとピンツの姿が見えた。
ほっとすると同時に、なぜか少しだけがっかりもした。
もしハイネが約束を忘れるか、あるいは大人にばれて咎められるかしてこの計画が中止になれば、こんな後ろめたくて危ない真似をしなくてすむのに、と心のどこかで思っていたからだろう。
ゼルの姿を認めたハイネは、隣のピンツをつついて緊張した顔でゼルに頷いた。
頷き返し、二人の後を追って駅に入る。
駅は思ったよりも混んでいた。
行き交う人々は一様に忙しそうで、挙動不審な三人の子供らを気に留める者などいなかった。
販売機で一区間だけの切符を買い、改札をくぐるまで、三人は無言だった。
改札を出て、並んで横たわるホームを見回し、沈黙を破ったのはピンツだった。
「ねえ、どのホームで待てばいいのかな。」
ハイネは答えなかった。
答えようがなかったからだろう。
ゼルは躊躇しながら、代わりに答えた。
「えっと‥‥オレが見たのは、西から走ってきたから。多分、東行きのホームにいればいいんじゃねえ?」
東に向かう列車のホームは、奥側にある。
海へ向かう列車とは反対方向、シティに向かう方のホームだ。
そこのホームからは、子供達だけで列車に乗ったことはない。
そもそも、幼い頃からトワイライトタウンを出る機会は滅多になかった。
たまに家族と一緒にシティに行くか、夏場、海水浴で隣町に行くくらいで、それより他には行ったこともない。
シティの先にはもっと大きな街があって、さらに行けばこの国と隣の国の国境がある、と地図の上で解ってはいても、そこが実際にはどんな世界なのかをゼルは知らなかった。
いや、ゼルに限らず、トワイライトタウンの子供はほとんどがそうだ。
だから子供たちは、一様に外の世界に憧れている。
しかし、憧れを実現させる機会はそう簡単には転がっていなかった。
親達は、子供達の無邪気な冒険心をあれこれ理由をつけて嗜める。
よその街など見たところで何も変わりはしない。
この街以上に安全で豊かなところはない、あえてここから離れようとするのは愚かな事だと再三に渡って諭す。
けれど、それだからこそ余計に、子供達の好奇心は膨らむ一方だったのだ。
人混みからそっと逃れるようにして、三人は目指すホームの隅に立った。
海へ向かうホームと違って、こちらのホームは人影がまばらだった。
「もし誰かに呼び止められたら、乗る列車を間違ったって言うんだぞ。」
緊張した面持ちでハイネが念を押す。
ピンツとゼルが小さく頷いたその時、突如ホーム上部のスピーカーから、列車の到着を告げるアナウンスが響いた。
流れたアナウンスは、行き先も知らぬ名なら、経由する街の名も初めて聞く名前だった。
おまけにアナウンスの最後の方は、反対ホームのアナウンスにかき消されてしまった。
その後ほどなく、聞き覚えのある音が風に乗って流れてきた。
タービンが吹き上げる蒸気の音がどんどん近付き、やがて凄まじい轟音へと変わる。
辺りを震わせながら、弾丸のごとくホームに滑り込んできたのは、紛れもないあの人面みたいな先頭車両だった。
生暖かい、むせ返るような蒸気に巻かれ、三人は後ずさった。
ハイネが何かを叫んだが、鼓膜を突き破りそうな音で何も聞こえない。
続いて、くすんだ青色のボディを持つ流線形の客車が目の前を横切っていった。
先月丘の上で見た時には二両だけだったのに、今日は延々と十両近くも続いている。
やがてそれらは徐々にスピードを落とし、最後に盛大な溜息のような音を立てて、ゆっくりと停止した。
ちょうど目の前に止まったドアが、無機質な音を立てて横に滑る。
こうして間近で見てみると、ますます異様な列車だった。
こんな列車は、見たことも聞いたこともない。
ドアの中の様子は暗くてよく解らないが、そもそも客車の中が暗いということからして尋常でない気がする。
もうもうと立ち込める蒸気の中、三人はしばし茫然と立ち尽くした。
これに、この怪しい列車に、乗っていこうだなんて。
あまりにも空恐ろしいことのように思えてきたのだ。
「い‥‥行くぞ。いいな!」
ハイネは迷いを断ち切るように大きく頭を振ると、胸をそらした。
二人は気圧されて頷き、めいめいぎこちなくタラップに足をかけようとした、その時だった。
突如、甲高い悲鳴が構内に響き渡った。
はっとして三人が振り返ると、改札前の広場で何かの騒ぎが起きていた。
人々が口々に喚きぶつかりあいながら、逃げ道を探すように右往左往している。
一体何ごとだろう。
三人は顔を見合わせ、次の瞬間ピンツが声を上げた。
「あ、あれ! あれなに!?」
指差した先に目を転じたゼルは、ぎょっとした。
人々の合間に、子供くらいの大きさの、不気味なモノが蠢いていたのだ。
それは、ぱっと見には硬質の紙かプラスチックで作られたオブジェのようだった。
痩せた白っぽい胴体にはヘルメットのような頭がのっており、胴体からは手足らしき細長い突起も伸びていて一応人型をしている。
けれど、人間と呼ぶにはあまりにもアンバランスな肢体だった。
先端が錐のように尖ったその手足、いや手足と思しき部位からしても、とても生き物のものとは思えない。
だから、何か無機質な機械仕掛けのオブジェではないのかと思ったのだ。
しかしそれは生きていた。
生きて確かに動いていた。
細い肩と腰をうねらせ、陽炎のように揺らめきながら、逃げまどう人の波間をゆらゆらと移動している。
おまけに、よく見れば一体だけではない。
二体、三体、いや少なくとも四体が、あちらこちらで人々を追い回しているではないか。
「なんだ、あれ‥‥。」
ハイネが震える声で呟く。
何なのかなんて、ゼルにも解るはずがない。
だがゆっくり考えている余裕はなかった。
「は、ハイネ! あれ、こっちにくるよ!」
ピンツが泣きそうな顔で悲鳴を上げた。
見れば、壁に近いところを漂っていた一体が、まるで三人の姿を認めたかのようにするするとこちらへ近付いてくる。
ハイネは、逃げろ、と声を張り上げた。
ピンツは奇声とともに飛び上がってその場を駆け出す。
ゼルも踵を蹴って、必死で二人に続いた。
すんでのところでそいつの脇をすり抜け、三人はこけつまろびつ広いホームを一目散に駆け抜けて、混乱が続く改札前の広場に飛び込んだ。
わっと押し寄せる人の波、頭上を行き交う悲鳴と怒声。
何度も人にぶつかり、揉みくちゃにされるうちに、ゼルはどこをどう走っているのか解らなくなった。
どうにか改札まで辿り着いたものの、気がつけばハイネもピンツも見当たらない。
しまった、と慌てて二人の姿を求めて周囲を見渡した、次の瞬間。
突然もの凄い力で襟首を掴まれ、後ろに引き摺られた。
「あ? なんだ。人違いか。」
さも失望したような、くぐもった声が頭の上で聞こえた。
驚いて振り返ったゼルは、その声の主を見て二度ぎょっとした。
真っ黒いモノ──いや、真っ黒いコートを着込み、目深にフードをかぶった人間が、ゼルの顔を覗き込んでいる。
「髪の色が似ていたから、一瞬そうかと思ったのに。」
若い男だ、と声でわかった。
しかし暗く翳ったフードの中は、顔の輪郭すら伺い知れない。
男は溜息のような声を洩らしてかすかに首を振った。
首にかけられた金属製の飾りが、ちりり、と軽い音をたてる。
「おい、お前。ロクサスを知っているか?」
──ロクサス?
ゼルは目を見張った。
誰だ、こいつ。なんで、ロクサスを。
「聞こえなかったか? ロクサスだよ、ロ・ク・サ・ス。」
──知っている、なんて。
正直に答えちゃいいけない、と瞬間的にそう思った。
見るからに風体の怪しいこんな男に、迂闊な事を答えていいはずがない。
だが、ゼルの反応で男は何かを察したらしかった。
「知っているんだな。」
慌てて首を横に振ったが、無駄だった。
男はゼルの襟首を掴んだまま、おもむろに片手でフードを剥がした。
フードの下から現れた顔に、ゼルは少し驚いた。
男が思ったほどの強面でなく、それどころかどこか子供っぽささえ残る優男だったからだ。
細面の白い頬も、すらりとした鼻筋も、間違いなく美男の部類だった。
燃え上がるように逆立った紅の髪も、切れ長の目許も、はっとするほど美しい。
ただ、その緑色の瞳だけは。
綺麗だけれど、妙に寒々として冷たかった。
まるで、心を持たず血の通っていない人形のように。
感情らしい感情がかけらも見えない、無機質なガラス玉のような瞳だったのだ。
ぞっとした。
これは人間の目じゃない、と思った。
「知っているなら教えろよ。ロクサスはどこにいる?」
切羽詰まった様子で男はゼルを揺さぶった。
恐怖と緊張で舌の付け根が強張り、声一つ出ない。
と、男の背後に、奇妙な紫色の煙が立ち上るのが見えた。
煙はみるみるうちに膨らみ、身を捩りながら黒い靄となって幅を広げ、やがて闇色の大きな塊となっていく。
それはまるで、何もない空間に突如開いたブラックホールのようだった。
一切の光を通さず、すべてのものを瞬時に飲み込んでしまいそうな、漆黒の穴。
その縁は禍々しく揺らめきながら、黒いうねりを吹き上げている。
ゼルはとうとう、悲鳴を上げた。
訳も解らず本能的な恐怖に襲われ、逃げなければ、と思った。
男は、さらにゼルの腕を引き寄せようとする。
滅茶苦茶にもがいてその腕を振りほどき、ゼルは脱兎のごとく駆け出した。
一瞬、引きつった男の顔が視界を掠めた。
待て、と鋭い声が耳を貫く。
──待ってたまるか。
混乱し続ける人の波をすり抜け、改札を勢いよく飛び越え、ゼルは全速力で走った。
脇目も振らず、振り返ることもせず、ただひたすらに走った。
足の速さには自信がある。
学校でも、短距離走だけは誰にも負けた事がない。
そのまま駅を飛び出し、駅前の広場を一直線に横切って、商店街を駆け抜ける。
さすがに呼吸が苦しくなってきたが、それでも歯を食いしばり、さらに膝を高く上げ続けた。
何度も角を曲がった先で、咄嗟に地下通路入り口が目に止まった。
一目散にそこへ走り込んで、ようやくゼルは足を緩めた。
ばくばくと破裂しそうな心臓を押さえながら、肩からずれて首筋に食い込んでいたショルダーバッグをかけ直し、へたへたと座り込む。
脈打つ鼓動で目の奥が痛み、視界が赤く染まっていた。
喉はからからに灼けるようで、血の味を帯びた痰がせりあがってむせる。
地下通路の中は、ひんやりとして静かだった。
ゼル自身の激しい息遣いと、遠くでひたひたと水の滴り落ちる音を除けば、あたりはしんとして人の気配はまったくない。
ここまでくれば、大丈夫──いや。
気は抜けない。
こんなところでは、見つかってしまうかもしれない。
奥に。もっと奥に、逃げねえと。
朦朧とした頭を振り、ゼルはよろめきつつ立ち上がった。
そして、壁で体を支えもつれる脚を叱咤しながら、ふらふらと奥に向かって歩き出した。
To be continued.
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